第二ラウンド

 本日は、先週第二章でつまづいて敗北を喫したこれを、大学院ゼミで。

The Theory of the Novel

The Theory of the Novel

 とりあえず、第二章までの議論をMarxism and Form: Twentieth Century Dialectical Theories of Literatureの助けを借りて復習=復讐。このころのジェイムソンは非常に分かりやすいのだが、やはりさすがに選択的にまとめている感がある。でも、ジェイムソンを読んで脳の回路がクリアになったせいか、第三章はなんとか飲み込める。特に銘記しておくべきなのは、疎外論の問題だろう。ルカーチによる「叙事詩と小説」という図式自体はよく使われるものの、「生と意味」が一体のものである叙事詩的なものがもつ疎外論的ヤバさは十分な強度で受けとめられているとは言い難い。

 しかし、第三章を熟読すると、ルカーチ叙事詩的な世界を疎外以前のユートピアだとは述べていないのである。ルカーチ叙事詩が可能な世界を「第一の自然」、そこからの疎外に耐え、全体性を回復する試みとして人間がつくり出した世界(つまり小説)を「第二の自然」と言い換え、次のように述べている。

Estrangement from nature (the first nature), the modern sentimental attitude to nature, is only a projection of man's experience of his self-made environment as a prison instead of as a parental home. (64)

The first nature, nature as a set of laws for pure cognition, nature as a bringer of comfort to pure feeling, is nothing other than the historico-philosophical objectivation of man's alienation from his own constructs. (64)

 一つめの引用におけるself-made environmentと、二つめの引用の最後のconstructsとはもちろんthe second natureのことである。つまり、第一の自然=疎外以前の叙事詩的世界は、「疎外以後」の世界の全体性を担保するために人間が創造した第二の自然からなおかつ疎外された人間のprojectionであり、その状況のobjectivationでしかないのだ。これは、ウィリアムズの議論と同型である。つまり、近代以前は近代のさまざまな分断(疎外)によって生成される幻想である、という。例えば「田舎と都会」の区分のように。

 さらには、ここでルカーチが、第二の自然は「人間自身の創作物」であると強調していることは重要である。疎外論的な前近代の想像を不可避のものにするかに見える、近代の疎外状況であるが、それはあくまで人間がつくったものである、ゆえに人間によって変えうる、ということだ。この点もウィリアムズと通底する部分である。