来週末に向けての準備。コールリッジとシンボル/アレゴリー論の方にも取りかかる。まずはSEL(Autumn 2006)のDaniel Fried, "The Politics of Coleridgean Symbol"を。これは、ド・マンに代表される(というよりFriedがド・マンに代表させている)、「ロマン主義においてシンボルがアレゴリーより上に置かれたが、シンボルは常にアレゴリーによって代補される」という説に対し、歴史化(といってもコールリッジが書いた政治的コンテクストの再構築)によって反論しようというものであり、これは正直言って、11月のド・マンと一緒に読んだ方がよかったかも。そもそもド・マン読解がそれでいいのか。私にも分からないので、再読だな。
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バルザックと比べると、ユゴーは歴史の衝突を個人同士のメロドラマ的な葛藤へと落とし込む手法において、一枚も二枚も上手だ。しかしそれは、ルカーチ的な「典型」ではなくて、単に政治を道徳へと変換してしまう手続きである。
であるからして、共和派と王党派との闘争はイデオロギー的葛藤ではなく個人同士の葛藤となり、またそれゆえに語り手が相対する両派にコミットすることが可能になる。そこにイデオロギー的矛盾はなくなり、両派を横断する道徳的基準が小説の枠組みとなるのだから。
さらに、その道徳的基準の問題に、階級と知の問題がからみつく。印象的なのは冒頭で、共和国軍の部隊(のちにヴァンデ軍に殲滅される)に拾われる、三人の子供をもつ農民の女性ミシェル・フレシャールであろうか。彼女はどこの国の者かと問われてその「国」の意味がわからず、自分の非常にローカルな出身地方を答える。フランスやブルターニュといった意味での「国」を単に知らないのである。そのような「無知」と革命軍/反革命軍の「知」の対置は、今度は反革命軍の領袖となるラントナック侯爵を助けてしまう物乞いの形象でくり返される。
読み進めている間には、ここにほぼブレヒト的な(『肝っ玉おっ母』的な)ものを期待したが、どうやらそのようには読めなさそうである。というのは、結局フレシャールの「無知」に、小説は「真実」の審級(=道徳的基準)を結末において与えてしまうからだ。ブレヒトの場合、「無知」だろうが「知」だろうが、人間の視点が必然的・絶望的にかかえる死角を、そのように想像的に解決することは決してない。
それにもかかわらず、猛獣の如く暴れ出して船を破壊する「砲台」だとか、ラントナック捕獲の警鐘、「音の聞こえない鐘」などの強度には、端倪すべからざるものがあるのは確か。