アヴァンギャルドの「歴史性」

 研究室から掘り起こして読む。

The Historicity of Experience: Modernity, the Avant-Garde, and the Event (Avant-Grade and Modernism Studies)

The Historicity of Experience: Modernity, the Avant-Garde, and the Event (Avant-Grade and Modernism Studies)

 しまった。今年はウィリアムズの「経験」をめぐる考察、それと深く関わり合う形で前衛、マニフェストの問題と来たわけだが、これは必読書であった。

 タイトルにあるhistoricityという言葉を見て、「なるほど、経験というものを普遍性、抽象性において見るのではなく、具体的歴史的文脈で見るのか」と断じてしまうような向きには、ご退場願いたい。またはこの本をよく読んでいただきたい。おそらくこの本はまさにそのような「歴史主義」に対する批判として書かれている(「おそらく」どころか、はっきりそのような意味でhistoricismという言葉を使っている)。

 もちろん、ここに言うhistoricityはそれとは正反対の、還元不可能性・出来事性・単独性としての歴史性である。

 Ziarekは(なんて読むんだろう)、「アヴァンギャルドの『常に新しくせよ』というかけ声はそれ自体すでに伝統になった」という議論に反論し、アヴァンギャルド芸術が(そしてその広い意味ではマニフェスト芸術が)目指した、芸術と生の分離という状況の再乗り越えの可能性を、それを「歴史化」することによって救い出そうとする。

 もちろん、これだけでは芸術による生の全体性の回復というかつての議論(Ziarekの批判するビュルガーやヒュイッセンは、アヴァンギャルドがそれに失敗したという理由でアヴァンギャルドの死を論じるわけだが)に逆戻りするように見えるかもしれないが、そうではない。

 Ziarekが救い出そうとするのは、アヴァンギャルド芸術(/マニフェスト芸術)がもっていた、芸術と生の分離そのものの「学び捨て」の可能性なのである。それをするために答えねばならない問題は、生すなわち芸術/芸術すなわち生のどちらと考えるとしても、現代の「文化産業」的状況──芸術が生もしくは日常性に薄く広く一般化し、生を組織化している状況──のそのままの肯定になりはしないのか、ということであろう(アヴァンギャルドが伝統となってしまったという議論──それが、文化産業への「取りこみ」を受けたという議論──もそれを論拠とする)。*1

 これを乗り越えるためにZiarekが依拠するのがベンヤミンハイデガー*2、それも特にハイデガーによるテクネーとポイエーシスの議論である。Ziarekはハイデガーによる出来事とポイエーシスの等値に依拠し、雑駁に図式化してしまえば「テクネー=歴史主義=日常性/文化産業=組織化された「経験」=アヴァンギャルドの死」に対して、「ポイエーシス=歴史性/出来事性=日常性の「異化」(ただし、今のところ異化という言葉は使われない)=経験の「歴史性」=アヴァンギャルドの可能性」を抉り出そうとする。

 とまあ、まだ途中ながら議論の屋台骨としてはこんなところ。後半ではガートルード・スタイン以外は名前も知らないロシアやポーランドの詩人が論じられていて、それ自体がこの本の売りでもあるのだろうが、それをぬきにしても、先日の残念な新刊マニフェスト論などと比べたときの議論の強度は明白。

 この本を出した時点ではこの人、the University of Notre Dame所属。って、うちの姉妹校じゃございませんの。と思ったら、現在はSUNYにご栄転なされている模様。ポーランド出身らしく、ポーランド語の詩集も出している。ちょっと惚れたので、この人の本を揃えちゃう。

*1:言いかえると、芸術と生の分離の乗り越えというプロジェクトは、文化産業によって皮肉な完遂をとげた、という話だが、これには二つの水準で反論がなされている。ひとつは、そもそもアヴァンギャルドのプロジェクトは、上記の分離乗り越えだけではなく、同時代にすでにその「乗り越え」を開始していた文化産業(のみならず、「政治の美学化」=ファシズムと「美学の政治化」=コミュニズム)との交渉をその要素としていた、post-aestheticな運動であったということ。もうひとつはアヴァンギャルドの時間性、つまりその出来事性・歴史性。Ziarekは、芸術/生の分離を前提とし、アヴァンギャルドの「経験」を「美学的経験」のみに縮減することが、その歴史性を抑圧する──してきた──と論じる。その意味で、アヴァンギャルドの経験を、芸術/生の分離をこえて開き、その歴史性を開示する作業はいまだ完成していないのであり、わたしたちは「いまだアヴァンギャルドを読んでいない」(20)のだ、と。

*2:この二人の差異ではなく、同一性に注目するところがミソ。7月の前衛シンポで使った言葉で言えば「遠さの中にある近さ」というところ。