忘れることに備えた記録

 本日は7月のミニ・シンポの準備に集中することにする。といってもいろいろなアイデアがよく言えば星座のごとく、悪く言えばたんに無秩序に散乱している状態。

 アヴァンギャルドモダニズムといえば、結局ウィリアムズおじさんが「全部言っている」のではないか、という懸念を抱き、'The Politics of the Avant-Garde'を再読。もう三回目か四回目なのだが、これまで全然読めていなかったなあと思う。いかに人間は本を読むときに「選択的」に読んでいるかということだ。その時の「アンテナ」に引っかからない部分は読み飛ばして、「死角」となる。

Politics of Modernism: Against the New Conformists (Radical Thinkers)

Politics of Modernism: Against the New Conformists (Radical Thinkers)

 それはともかく、実証的な「歴史的アヴァンギャルド」と教科書的「モダニズム」の話にしてはこれっぽっちも生産的にならない。「前衛」をもっとも広い意味に投げ返して考える必要があるのだが、ウィリアムズはそれをすでにやっているわけである。テーゼを一言でまとめておくと、「ブルジョワによる、ブルジョワに対する長い革命」が20世紀前半に到達したのが、アヴァンギャルドモダニズムだ、ということ。まあ、ある意味常識的な見解。でも、常識的な見解はいつの間にか見えなくなってしまうもので。

 このテーゼで、だいたい処理できてしまう。その戦闘性や戦略、そして保守主義から社会主義ファシズムにいたるまで、帰結する政治的傾向に違いはありこそすれ、アヴァンギャルドマニフェスト芸術にせよ、モダニズムによる「個」への沈潜にせよ、対ブルジョワの長いブルジョワ革命の一部なわけだ。

 この辺が押さえられてないと、ウィリアムズの'The Bloomsbury Fraction'論文に関して、ブルームズベリーの「非難」(批判ではなく)という誤読が生じてしまう。(それについては以前書きました。)

 そうすると、今回主要テクストのひとつになりそうな、この作品も、非常にクリアに位置づけることができる。

三ギニー (ヴァージニア・ウルフコレクション)

三ギニー (ヴァージニア・ウルフコレクション)

 このエッセイは、「ポスト・サフラジズム」の時代において、「マニフェスト」に署名することへの逡巡という体裁で綴られ、最終的にそれらのマニフェストが前提=生成する「(ブルジョワ)市民」の外部者として「教育ある男性の娘たち=アウトサイダーズ・ソサエティ」の存在を「宣言」する。

 サフラジズム自体、未来派とも接近しながらマニフェスト形式を大いに活用した、「ブルジョワによる、ブルジョワに対する革命」だったわけだが、『三ギニー』が基本的に行っているのは、そのマニフェスト形式を奪用しつつ、支配的となったポスト・サフラジズム状況にしかけられたもうひとつのブルジョワ(小)革命なのである。

 という読みが、『三ギニー』を持ち上げるどころか、これまでの読みへの「冷や水」になっていることが理解してもらえるかどうか。