書くことの反アレゴリー

他者の自伝 ――ポストコロニアル文学を読む

他者の自伝 ――ポストコロニアル文学を読む

 読了。すでにid:melaniekさんがレヴューしているのでご参考までに。

 「ポストコロニアル文学を読む」という、素っ気ないサブタイトルが、素っ気ないくせに雄弁に「体」を表している。読む。よく読む。これにつきる。「ポストコロニアル」は? と言われそうだが、実のところこの本、melaniekさんが評価するように「今後英文科で『ポストコロニアル』をめぐって研究を志す者であれば明らかに必読」であるというより、現在学問的批評に関心があるなら必読なのであって、対象がポストコロニアル文学であるのはたまたまにすぎないのではないか、などというと怒られますね。それにしても、現代は「ポストコロニアル世界」であるのだからして、現代文学とはすなわちポストコロニアル文学であろう、などと妄想はほどほどにしておこう。まあ、私は現代ポストコロニアル文学を「よく読」んでいない人なので、よい読者ではない。

 その辺は暴力的にしらばっくれてしまうと、まず、「文学/批評」というような対立軸でものを考える(もしくは考えない)人には、この本の「読み方」自体が分からないだろうな、ということ。おそらく著者の戦略なのだが、いわゆる「フィクション」であろうが、「自伝」であろうが、「批評」であろうが、同一平面上において読む。いや、戦略というより、私もそうだが、こういったテクストの間に「文学/批評」などという対立がそもそも見いだせない、そういうところから出発して書かれている。そしてあとは読む。ひたすらに読む。読むことと書くことの境界線がすり切れてかすんでくるぐらいに、読む。書いているあなたを読んでいる私を書く、この二つの「書く」を分断する深淵と、それらの見分けがつかなくなるような瞬間とあいだの往還、それが「他者の自伝」ということである。

 その、「自伝」を中心に据えることで、「文学/歴史」という二項対立も切りくずされる。上記のような関係にある「書いているあなた」と「読んで書いている私」とのあいだに、そんな区分が存在しえようか。

 しかし、(と、突然醒めて)、現代ポストコロニアル文学って袋小路だなあ、ということもよく分かりました(袋小路でない文学を探すのも難しいけど)。クッツェーはその極北であって、批評的自意識などすべて飲みこんだ上で書いている。そんなのと対峙し続けたら、病気になりそう。