操作主義

 週末の研究会に向けて、ようやくまとまった時間が取れる。午後いっぱいエンプソンと格闘。半日じっくり、というのもものすごく久しぶりな気がする。逆に、日頃いかに読書や思考が分断されて、まともに研究できていないかが痛感され、ため息。来年は本務校・非常勤あわせて二コマ減るので、もう少しましになるかな、と、ずいぶん先に希望を託す。

 その合間に、北の国から警報が届いた雑誌記事を。

斎藤環「サイコ・バブルが日本を覆う──『心の操作』が招く闇」『中央公論』2008年1月号

 おお、なるほど。心理学のポピュラー化で、「こころ」が身体と同じように操作できるものとなった「操作主義」。昨今の脳科学ばやりもその延長線上にある、と。結論近くの「昨今の『脳ブーム』の一部は、脳がいまだブラックボックスであるという前提においてならば、再帰性を解除しうる可能性をはらんでいた」という記述には大きく頷く。もちろん精神分析は「こころ」をブラックボックスとするところから始まるわけであって(というレトリックは以前コメント欄で使った気がする)、その点で斎藤氏が精神分析に置く「信」には同意するわけである。