がまんの存在論

Blindness and Insight: Essays in the Rhetoric of Contemporary Criticism (Theory and History of Literature)

Blindness and Insight: Essays in the Rhetoric of Contemporary Criticism (Theory and History of Literature)

 エンプソンの読書会準備。"The Dead-End of Formalist Criticism"を読む。

 なるほど。ド・マンのこの論文を根拠として、エンプソンは「脱構築を先取りしていた」などと紹介されるわけだが、当のこの論文自体がそのような教科書的抽象化そのものへの批判であることは、皮肉というほかない。

 これは(英米の)「新批評」のフランスへの紹介文として書かれたそうであるが、こんな「紹介文」があるものか。新批評そのものの袋小路をリチャーズからエンプソンへの流れで示し、返す刀でフランスの「意識の批評」やさらにはバルトまでめった切り。

 リチャーズは作品(言語)が、作者による原初の経験を忠実に写し取るもので、それが批評家の対象=物体となるとする(そこでの「誤読」はあくまで批評家の能力不足であり、経験の再構築は可能であるという前提がある)。そこでは、原初の経験と言語との間にある「疎外(separation)」は解消(reconcile)される。

 エンプソンはリチャーズの手法を徹底化しつつ、「七つの型」の特に一番目と七番目において、詩が〈存在〉の亀裂(上記の「疎外」)を解消してしまうことなく、矛盾を解消不可能なままに共存させているとする。(ド・マンは前者を「単なる矛盾」、後者を「存在論的曖昧」と言いかえる。)

 『牧歌の諸変奏』ではそれがパストラル形式に関して展開される。ここで、ド・マンは、なぜパストラル論の第一章が「プロレタリア文学」なのか説明している。パストラルの伝統が、自然と人間の意識との分離(separation)をその枢要とするならば、エンプソンにとってのパストラルはその分離に、(〈絶対的なもの〉を持ちこむなどによってそれを解消することなく)「耐える」ものであるべきだ。この場合の分離とは単純な話、労働者という「自然」と、プロレタリア文学(作家)との根源的「分離」ということ。従って、エンプソンにとってあるべきマルクス主義とは、分離や疎外を勇み足に解消しようとするのではなく、それに耐え続ける態度となる。

 「耐えること」(patience)というキーワードはド・マンの論文で二回(impatienceも含めれば三回)使われている。まず、この「プロレタリア文学」論文を論じるくだりで、エンプソンにとって「マルクス主義は……それ自身の結論を徹底的に追求する忍耐(patience)を欠いた詩的思考である」(240)というところ。二度目はバルト批判で、バルトは「忍耐のない『パストラル』的思考の罠におちた好例である──すなわち、フォルマリズム、偽りの歴史主義、ユートピア主義」(241)という部分。そして論文の末尾。ド・マンの論旨が正しいなら、「残されるのは悲しき忍耐の時だけだろう──つまり、歴史だけだろう」(245)と。