翻訳者の使命

 風邪ひいた。またひいた。今年は、私の人生の中でも風邪をひいた回数において類を見ない年として記憶されるだろう。

 ボーッとして非常勤に出かけたら、携帯は忘れるわ、ひとつの授業のファイルを間違って持って出てしまうわ。散々。

 ウィリアムズのModern Tragedyを読むが、鼻づまりで頭がぼやけて入ってこない。そうでなくても入ってこないのに。

 そこで、友人にいただいた、ペーター・ビュルガー『アヴァンギャルドの理論』翻訳のあとがき(「制度〈学問〉か、批評か」)を読む(はまぞう君では発見できず。古本でも出回っていない)。

 ひどい。

 これは、やってはいけない。

 翻訳者が、翻訳した本を全否定してはだめだろう。全てに同意せよというわけではないが、そこまで否定するなら、翻訳は降りるべきじゃないか。

 『アヴァンギャルドの理論』は、「文学」の相対的自律性をいかに確保するかという貴重な試みであると理解している。文学が(「理論」が、でも同じだが)何らかの社会変革力を持つためには、片足は「経験」に埋没し、片足でそこからなんとか超越しようとする、その瞬間の股割き状態、あやういバランスからしかあるまい。その大まかな点に、訳者自身同意するであろうに、これほどの批判をするのは、それこそ制度〈学問〉内部での神学論争になってはいないか。

 いや、そんなことはどうでもよくて、東大助教授(当時)が、自分は本当は「紀伊半島か房総半島の、さもなければイタリアかスペインあたりの、卓越した釣師になりたい」とうそぶきつつ、自分が訳した本の制度的学問性を批判するなら、さっさと言うとおりに釣師になって後進のためにポストをひとつ空ければよいのである(まあ、そのポストは実際空いたが)。こういう斜に構え方は非常にいらだつ。

 おっと、言い忘れてましたが、翻訳者の氏名は浅井健二郎。