仮定法にご用心

 はてなからメール。私がアップロードした(昨日の)写真が、サーバ移行の際に消去されてしまったと。しっかり頼むよ。

 突然ではあるが、ブレヒトの詩「あとから生まれる者へ」の第二節の冒頭を、単にブログに引用しておきたいという欲望にかられたので引用しておく。英語訳ですが。

I came to the cities in a time of disorder
When hunger ruled.
I came among men in a time of uprising
And I revolted with them.
So the time passed away
Which on earth was given me.


I ate my food between massacres.
The shadow of murder lay upon my sleep.
And when I loved, I loved with indifference.
I looked upon nature with impatience.
So the time passed away
Which on earth was given me.


In my time streets led to the quicksand.
Speech betrayed me to the slaughterer.
There was little I could do. But without me
The rulers would have been more secure. This was my hope.
So the time passed away
Which on earth was given me.

 どこから引用したかというと、

Modern Tragedy (Broadview Encore Editions)

Modern Tragedy (Broadview Encore Editions)

の最終章から。ウィリアムズとの議論とは関係なく、今日この詩を読んでいて、これまで何度か読んでいたはずなのだが初めてずしんと来た。ひょっとすると、この訳のおかげかもしれない(ウィリアムズは出典を示していないので、誰の訳なのか分からないのだが)。たとえば、私の持っている英語訳、

Bertolt Brecht Poems 1913-1956

Bertolt Brecht Poems 1913-1956

では、二連目の冒頭は

My food I ate between battles
To sleep I lay down among murderers

となっており、圧倒的に上の引用の方がずしんと来る。「私は大殺戮の合間に飯を喰らった」とは、20世紀の知識人が抱いてしかるべき普遍的感覚であろう。重点は、大虐殺の方にあるのではなく、飯を喰らっている自分にあるのだ。これは疚しさなのか、それとももっと醒めた宿命論なのか。

 それをより深く考えさせるのが、最後の数行である。「できることはほとんどなかった。しかし、私がいなければ/支配者どもはもっとゆるぎなく居たことだろう。それが、私の希望だった。」

 ここを読んで死にたくさせるのは、仮定法過去完了(would have been...)と過去形(was)の連続である。私はかねがね、文学における仮定法の役割を意識してきたが(修論でも論じたなあ)、ごく単純に見れば、仮定法はありえたかもしれないユートピアを示す方法である。大げさに言えば文学というのは仮定法的である。しかし、この詩では(ドイツ語原文にあたっていない&あたれないのがつらいところだが)、直後の"This was my hope"が、その仮定法的空間を、過ぎ去った過去に放擲してしまう。支配者に対する詩人の小さな勝利が、過去形によって嗤われてしまう。それによって詩人(語り手)はどうしようもなく「悲劇的」なポジションにからめとられる。読んでる私は、死にたくなる。そういうことである。

 死にたくなるといえば、この詩のリフレインは、明らかにもうあの世に行ってしまった人の視点である。だから、「あとから生まれる者へ」。メメント・モリ