ゲルマントのほう

 月末締切の論文と成績評定が終わり、ほっとする間もなく翻訳と来月の発表準備へ。

 「イングリッシュネス」についてしゃべることになったのだが、どうするべ。そんなに、目を三角にして頑張らなくてもよくて、概論的にやればよさそうではあるが。パラパラと本をめくっては閉じ。

 『ハワーズ・エンド』と、これ

In Search of England

In Search of England

の対照関係は面白いな、と、自分のリポートを読んで思う。

 『ハワーズ・エンド』が1910年で、『イングランドを求めて』は1926年に新聞に連載、1927年出版。この二つで、交通手段とそれが与える心象地理の関係が完全に逆転している。ここで言っているのは、鉄道と自動車の関係。

 『イングランドを求めて』は自動車での旅行記で、モートンは、自動車の一般化のおかげで鉄道では行けなかった「本当の田舎」にアクセスできるようになった(そしてもちろん「本当のイングランド」を発見できるようになった)と言っている。

 対して、『ハワーズ・エンド』では、ジェイムソンの帝国主義論にもあるように、鉄道と駅が都会/田舎の心象地理(「イングランド」の全体像)を組織化している一方で、自動車での移動はその心象地理を破壊してしまう作用をもつ。

 確かに、交通手段と心象地理というのは切っても切れない関係にあるね。

 飛行機で日本からたとえばヨーロッパのどこかの国に行くのは、非現実的感がともなう。多分航空会社の演出のおかげもあるのだろうけど。航空会社の理想は、飛行機を「どこでもドア」にすることかもしれないが、それが効を奏してか、機内にいる限り、「移動」の感覚は非常に希薄。そこで、だいたいの旅客機ではモニターに現在位置や高度を表示して、ヴァーチャルな「移動の感覚」を与えたりする(機外の温度もよく表示されるが何の意味が?)。

 私は免許を取って日が浅い(もうすぐ初めての更新)ので、鉄道に頼っていた東京時代と自動車が主体の京都時代での心象地理のとらえ方の違いは身体的によくわかる。この違いというのは、同じ場所を違う交通手段で移動した際にもっと明確になるのだろう。東京を車で走るということをしてみたいな。