転移

 大晦日

 先日、今年の反省はしてしまったものの、改めて内省を。

 今年は私個人にとって重要な誕生と、それから死の年であった。

 研究については、何かが「一回り」した感じがする。いや、この感じは博論書いてから抱くべきかもしれないが。ともかくも、この道を志したころに考えていたことが回帰してきているような気がする。

 例えば昨日、とてもすてきな「年賀状」をいただいた(いただいた、というよりこっちで勝手に読んだ)。

http://d.hatena.ne.jp/woeswar/20061230

 この日記の方、どなたかは知らないがいつも興味深く読ませていただいている。このエントリにも表現されているように、患者と向き合う真摯な姿勢と学識とが調和して、読む者に「ガツン」と衝撃を与える(少なくとも、私は受けた)。

 このようなアナロジーはまずいのかもしれないが、文学研究もテクストの〈潜在性〉が披瀝する瞬間を待つことなのではないか。その意味で、読者と作品との関係は非常に精神分析的な関係かもしれない。(という話はショシャナ・フェルマンが書いていて、修士論文で依拠した記憶がある。)

 ただし、読者と作品のどちらが患者でどちらが分析家か、ということは実は定めがたい。病的なテクストがあり、それを分析するのが読者かと思いきや、実は読者は作品に対する「転移」を起こした患者であり、自らの〈潜在性〉に向き合おうと作品を読んでいる可能性もあるのだ。

 後者だとすると、文学作品の出来不出来というのはいかに読者に転移を起こさせるか、いかに「知ると想定される主体」の位置を占めうるかという点にかかってくる。これは何ら深遠なことを言っているのではない。分かりやすい例では、探偵小説を考えればよい。死体がある。犯人(=真実)がいるはずである。「この小説は犯人(=真実)を知っている」、そう読者が考えたとき、読者は読者になる。

 また、そういうわけで、文学は正月のようなものだ。いや、日本の正月だとちょっとアレだが、とにかく文学の「祝祭性」も、読者の〈潜在性〉がかいま見える瞬間を引きだすためにある。

 かくして、文学研究者は作品との神経症的な関係を取り結んでもがいている存在となる。時々、というか往々にしてその転移を断ち切ろうとして、「歴史的文脈」に還元してみたり、「政治性」で裁断したりするわけだが(このどちらも私自身やることだが)、それでも断ち切ることができないような作品が存在し、そのような作品こそ「名作」なのではないか。

 なんてことを、修士のころには考えていたと思う。しかし、その「問題」はなんら解決していないのだけれども(忘却はしていたが)。