構造主義生物学

生きる力、死ぬ能力 (シリーズ生きる思想)

生きる力、死ぬ能力 (シリーズ生きる思想)

 生物学でソシュールが応用されていると北の国からの便りをいただき、読む。

 最近関心を持っている「第三の文化」のひとつのありようであることは確かだが、啓蒙書なので(というか私の知識が足りないので)なんとも判断はつかず。

 生物の進化を説明する際に、ネオダーウィニズムは遺伝子による決定と自然選択説を採用するのだが、例えば環境による形質変化と遺伝子の変異による形質変化には、形質変化という点で違いがない。そこで、「遺伝子による生物の決定」を否定し、遺伝子を、放っておいたらどんどん変わってしまう生物を統御するための構造として見る。

 そこでソシュールが入ってくるのだが、遺伝子情報(シニフィアン)とそこから発現する形質(シニフィエ)との関係は「恣意的」である、と。そこからさらに、ソシュールのようにその恣意的な結びつきを可能にしているのは「差異の構造」である、という話まで行っているかどうかは微妙ながら、そういうことなのだろうか。

 構造主義がそうであったように、この「システムとしての生物」観は人間主体を否定しつつ、同時に「主体がないことの安心感」を与えてくれる種類のものであるような気がする(前半が「死」をめぐる説法であることは頷ける)。一歩間違えばニューエイジや、宮崎駿の世界(そもそも構造主義ニューエイジ宮崎駿には親和性があるのかも?)。

 それはともかく、DNA決定論の否定は脳科学における「脳による決定論」の否定と似ているような。つまり、身体を統御する脳、というヴィジョンが否定され、末梢神経も含めた身体全体が「脳」であり、その身体=脳は環境とアモルファスな形で接しているというような議論。