文学

 改めまして。

ブラバン

ブラバン

 多くは語らないと書いたが多くを語っちゃおう。

 いやー、文学やねえ。文学というものが、過去の破片を拾い集めてひとつにする営為ならば(だからこそ探偵小説は小説のナラティヴのひな形なのだが)、これぞ文学。高校時代と、四半世紀後の現在。あの日のブラスバンドをもう一度結成するという、これだけの表現ではいかにも歯の浮きそうな道具立てだが、浮いた歯がバラバラーっと全部抜け落ちてとても気持ちいいような読書体験を与えてくれる。

 別に「新しいもの」は何もない。例えば、私に身近な作品では、

ダロウェイ夫人

ダロウェイ夫人

も、過去の断片、青春時代の悔悟を現在においてひとつにまとめなおす小説なわけで、さらには『ダロウェイ夫人』では、「過去を現在において統合する」という小説の機能が、まさにその小説内でダロウェイ夫人が開くパーティという形で、アレゴリー的に書き込まれているのに平行して、『ブラバン』ではブラスバンドが小説のアレゴリーになっているという点でも、両者はそっくりである。

 小説そのものをアレゴリー化して小説内に書き込むという行為の必然的かつ逆説的帰結は、そのアレゴリカルなイベントを成就させないということである。ダロウェイ夫人のパーティはセプティマスの死によって亀裂を穿たれるし、ブラバンの再結成は予定したような形では完成しない。しかし、二つの小説は、アレゴリカルなイベントに欠如を持ちこむことによって、逆説的にアレゴリーの「完全性」を担保しようとする。ポジティヴには提示できない完全性は、アレゴリー化したところで提示できないわけで、あとは「仮定法」の領域に放逐するしかないわけだ。「あれさえなければ、これは完成しただろうに」という言明は、不完全さを呪っているのではなく、不可能な完全性を、仮定法という時制を超えた世界に放逐することによって担保しているのである。

 Oasisはこう歌っている──"True perfection has to be imperfect. / I know that that sounds foolish but it's true."

 だが、この論理はすぐに次のような横すべりをする──「あいつ(ら)さえいなければ、この世界は完全だろうに。」