死者の弔い

 本日は、授業と会議以外に「物故者追悼ミサ」なるものがあった。ミサでは「共同祈願」というものがあって、もちまわりで教員代表もお祈りの言葉を述べる。今回は私にお鉢がまわってくる。

 私は無宗教であるが、死者の弔いには全力投球をしたいので、さんざん考えたあげく、「死はそれ自体無意味(意味を超えている)だが、生者が死者に意味を与える。そのことによって生は死から意味を投げ返されるのだ。死が無意味のままでは、生まで無意味になってしまう。だから、このような儀式は死者を忘れるためにあるのではなく、死者に意味を与え、記憶にとどめるためにあるのだ、死者が忘却されませんように」という主旨の(実際はもっと短い)お祈りを捧げる。

 実際そうなのだ。死に意味を与え、そこから意味を受け取らないで生きていける人間はほとんどいない(ただ、上記のお祈りにはちょっと問題があって、意味を与えることは記憶にとどめることではなく、忘却することかもしれない)。だから、死は強力なイデオロギー的備給を受ける場になる。靖国を見よ。無名戦士の墓を見よ。

 ただ、それらの儀式が「創造された伝統」であると脱構築するだけでは何の批評にもならない(ということは『現代批評理論のすべて』のある項目に書いたが)。死者の弔い、死に意味を与える行為が、それなしでは人間が一瞬たりとも生きられない行為であるならば、それは幻想だ、という批判はなんの力も持ち得ない。「死の無意味に耐えよ」といった批評的要請は、日常生活においてあまりにも暴力的だ。イデオロギーとは「生きるための必然としての幻想」なのだ。

 などと考えながらぼおっと学科会議で座っていたら、その間にいろいろ仕事を振られたような気がするが、まあいいや。未来の私には恨まれるだろうけど。