理論と実証

 今、改めて「理論か、実証か」もしくは「理論か、歴史か」ということが問題になっている。それを示す事例に連続で出会ったのである。ひとつは亡くなった村山さんの日記の最後のエントリーでも触れられていた、『英語青年』10月号(1892号)所収の遠藤不比人「歴史主義の中心で/の『歴史』を叫ぶ」であり、もうひとつはid:zappaさんの昨日の日記で触れられている、齋藤一『帝国日本の英文学』に関する研究会報告。

 遠藤さんの論文は図書館で読んで今手元にないし、齋藤さんをめぐる研究会は参加していないので、これらは理論と実証が今また対立軸(それが、虚偽のものであっても)として先鋭化していることを端的に表している例として挙げているだけである。

 遠藤さんの述べるように、理論をかじっている人間からすれば、そのような論題はフーコーから新歴史主義という一種の袋小路にいたるまで、論じられ続けているわけで、実証への回帰がそれらを華麗に忘却してしまうのはいかがなものか、これは分かる。一方で、zappaさんの言うように、「分業でいいんちゃう?」ということもよく分かる。また、「理論的パラノイアに陥ったら論文が書けなくなる人たちが出てくるのでは?」という村山さんのコメントも、頷く(というか、今の私だよ、それ)。一方、個別的な実証研究が単なる文化趣味である場合もあり、そこに理論的意義への考察が欠けているのはまずい、これもその通り。でも、面白い実証的研究は、理論的観点抜きに面白い場合もあり、これも捨てがたい。

 とまあ、現在それなりに真面目にやっている文学研究者は右往左往しているわけだ。いや、「文学研究者」というより、学問の脱領域化・再編成の兆しがある今、それぞれのディシプリンの「理論・実証」観のあいだに摩擦が生じているということかもしれない。私はというと、別にこの問題に最終解決を求めているわけではなく、「正しく右往左往しましょうよ」と思うだけだが。