誤訳

http://d.hatena.ne.jp/kebabtaro/20060907

 こちらで早速『カルチュラル・ターン』を読んでいただいている。で、誤訳の指摘→「映画を説明するくだりに「絵画を模倣している俳優たちの生きた身体のタブロー」とあったのだけれど、「生きた身体のタブロー」は普通に「活人画」じゃ駄目だったんかなあ。」

 おお、私の担当箇所だ。原文は'tableau of the living bodies'なので、「活人画」でいいやんけ。あーあ。ずいぶん前に訳したので記憶はないが、'tableau (vivant)'だけで「活人画」なので、何か特殊な意味を読み込んだのかな? でも、文脈上その必要はないし……どちらにせよ、なんとも拙いミスである。私のバカ。

 改訂があったら(ないような気がするが)、訂正しときましょう。ちなみにこの本、すでにかなりの誤訳を発見してます。ブルーです。

 そのくだりで論じられているのは、こちら。

カラヴァッジオ [DVD]

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 極彩色。イメージの洪水。装飾の過剰。

 ジェイムソンは「芸術および芸術家を題材にした(映画)作品」のひとつとして(そしてジェイムソンが真に──有用に──ポストモダン的だと考える例として)他の「芸術家映画」とならべてこれを論じている。「芸術及び芸術家に対するメタなまなざし」自体は全然ポストモダンではなくて、モダニズム以来のもの。ジェイムソンは(この人はあくまで「モダニズム」の人だと私は思うが)他のポストモダン的ノスタルジー映画に対して『カラヴァッジオ』をシミュラークルを可能にするテクノロジー自体のシミュラークル=異化に成功している点で評価するのだが、これは結局『カラヴァッジオ』がポストモダンではなくモダンだと評価しているに等しい。テクノロジーの異化ということもモダニズムの専売特許だから。したがって、よく見る(というか、80年代くらいによくあった)「モダニズム作家のポストモダン性」みたいな議論は、完全に前提を間違った、逆転した議論だったのだ。