英文学会終了。

 というわけで、終了。シンポジウムにはたくさんの方々に来ていただき、ありがとうございました。でも、一部の方にとっては「その話、もう聞いたよ」という内容だったことを深くお詫びします。一応、アップグレードされてはいたのですが……

 私個人の発表はともかく、シンポ全体はかなり盛況になり、まずは成功というところでしょうか。ハンドアウトは200枚、前日の深夜に最寄りのサンクスで、疑いの目にさらされながら刷ったのが、ほぼ完売(売ってないけど)。モダニズムを再考する論考や企画は数多くくり返されてきたが、いくら「モダニズム」を括弧に入れようとも、そういう問題設定自体が「モダニズム」を延命させてきたところがある。いや、別に「モダニズム」という呼称自体に何らかの悪が内在しているというわけではないが、司会者の言葉を借りれば、モダニズムという言葉をあえて本気で抑圧してみることで、「どんなinsightが生じ、またどんなblindnessが生じるか」ということ。

 という、シンポの大まかな目標については、それに向かう入り口くらいには立てたのではないでしょうか。私はと言えば、この一年いかに研究が進んでいなかったかを痛感したので(「仕事」はいっぱいやったのだが……)、しばらくはおとなしくインプットに励みたいな、というところ。

 ちょっと内容に踏み込んでおくと、「戦間期」という時代区分*1は、もちろん文学史の区分として従来の「死角」に光をあててくれる区分ではあるものの、歴史観としてはどうしても「戦争」による断絶のナラティヴになってしまう。もちろん同時代的にも「断絶」の感覚があったことは確かだろうけれども、主題によっては戦前からの、そして戦後への連続性を思考する必要がある。私の場合これから特に50年代にまで視野を広げるべきなんだろうな、と。

 あと、マイクがまわってこなかった(奪い取ってでもしゃべればいいのだが)のでちょっと申し開きをしておくと、例の「歴史化」の考え方について、私は実証すなわち歴史化だとは思っていない。今回も「実証」のふりをしながらその実何も実証していない。それに関連して、ジェイムソンについても、彼がルカーチ主義者(=ヘーゲル主義者)であることは隠れもないわけで、ジェド・エスティはそれを指摘しつつも「文化はすべからく〈精神〉をめざす(つまり、文化は常に完全なる自己意識、自己の自己に対する表象をめざす)」という前提は手放していない。問題は、現代においてその前提が保持できるのかということかもしれないのに。ウィリアムズは文化の全体性を否定性ぬきに、ポジティヴに語ってしまう点である意味異様なわけだが。

 ところで、京都に移って一年、英文学会では東京でお世話になった多くの方に再会し、なんだか楽しかった。こうやって「同窓会」になっていくのか、などという感慨。でも、多くの人が私の近況をよく知っている。なんでだろうと思ったら、このブログを読んでいるわけですね。なるほど。(←バカです。すみません。)

*1:ところで、他のディシプリン(経済史など)では「大戦間」ではなく「戦間期」が流通しているようですが、これいかに。