全体性へのノスタルジア

 しばらく映画について書いてなかったので、お勧めできそうなものを。

 サッチャリズム下での教育改革を背景とするコメディ。トニー賞をとったミュージカルの映画版。これは、日本の観客にとっては、かなり「スキーマ」を必要とする作品かもしれない。サッチャーによる教育への競争原理の導入というのは、あくまで背景という程度の扱いなので、日本の観客が不注意に観ると、単なる「受験戦争」の話ね、というふうになりかねない(いや、それもひとつの見方だけど)。

 それはともかく、新自由主義下の教育の問題は、伝統的な(でもちょっとハチャメチャな)教養教育をほどこす教師ヘクターと、舞台となる高校の「名門進学率」を高めるために雇われた、「オクスフォード出身」の臨時教師アーウィンとの対照によって見事に示される。ただし、(ネタバレになるのであまり書けないが)最後のどんでん返しが、サッチャリズム下の教育の問題を解消・隠ぺいしてしまう部分は否めない。

 なんにせよ、ヘクター的な教育、つまり、何年も、何十年もたったときにその意味が分かる、数値化できない教育に、どうしても肩入れしながら観てしまいますね。

インセプション Blu-ray & DVDセット (初回限定生産)

インセプション Blu-ray & DVDセット (初回限定生産)

 業界では有名な某「rentoの日記」で絶賛されていたので取り急ぎ観る。これはたしかに、すごい。クリストファー・ノーラン最高傑作。そういえば以前『ダークナイト』を、ちょっとほめすぎたか。

 この作品の読解としては、上記ブログでも述べられているような、「夢の工場」としてのハリウッドのアレゴリーという読み方が、確かに魅力的だ。夢の中では現実より時間が経つのが遅いという設定で、それが映画の一瞬で過ぎ去るシーンを製作するのに費やされる時間の長さのアレゴリーだというのも、なるほどである。しかし、そういうアイロニーがあるとして、この比較的長い映画を観て「時間を経つのを忘れる」(私は実際そうでした)というのは、本当の意味で皮肉ではないだろうか。

 というわけで、(ここからネタバレ注意!)私としては、よせばいいのに、最後の問題の場面については、「サイトーはハイパー大企業の社長ではなく、コブよりはるかに上手の『夢のスパイ』であって、わざと「奈落」に落ちることで、コブを奈落に誘い込んだ。最後の場面はだから**」という解釈を提示してみたい。あ、それじゃサイトーの動機が分からないか……。

ダロウェイ夫人【字幕版】 [VHS]

ダロウェイ夫人【字幕版】 [VHS]

 非常勤先で上映。かれこれ5回か6回目だろうか。観るのは。今回の感想としては、やはりこれは映画という媒体の決定的な限界(優劣のことは言ってません)があるな、と。この映画、原作との細部の違いがあって、その多くは「クラリッサ・プロット」と「セプティマス・プロット」を関係づけるためのものになっている。最初の花屋でクラリッサとセプティマスが目を合わせるとか。

 そのような変更を加えなければならない理由は、「そのままやってしまうとその二つのプロットがどうかかわるのか、観客に分からない」ということであろう。原作では、この二人は、「人生をwholeにする」というテーマでつながっているのだが(なんて断言すると怒られそうだけど)、映画ではそれが示せないということだ。だから苦し紛れの変更を加えることになる。

 ではなぜ示せないのか? おそらく、映画には(というのが言いすぎならこの作品には)、wholenessを保証する否定性が欠如しているからかもしれない。わかりにくいだろうから分かりやすい例をあげると、冒頭の場面では、広告の文字を空に描く飛行機が登場する。原作では、その文字が本当はなんだったのか、分からない。通りの人びとが、それぞれ勝手に、違う読み方をするので。それに対し、映画はその文字を画面に登場させてしまう。はっきり「CREEMO TOFFEE」と。

 この、ロンドンのさまざまな人びとが文字を読む場面は、戦後のリベラルな共同体を示す装置になっているのだが、その共同体の包摂力という点で、原作は映画版よりはるかに強力である。なにしろ、「なんて書いてあるかわからないけどみんな見てる」方が、文字が間違いなく読めてしまう、つまり「意味」が表層に書き込まれてしまっているよりも、より強力に共同体をまとめあげるのだから。(無名戦士の墓を考えよ。)

 これは、この断片的な場面だけでなく、作品全体に(アレゴリー的に)適用されるべきロジックだろう。つまり、クラリッサとセプティマスが究極的には「つながらない」という否定性によって、作品(原作)は全体性を確保しようとする。

 対して、映画版は、ある意味ではすでに、その表層においてwholenessを達成してしまっている。ジェイムソンの言うポストモダンノスタルジア映画(『カルチュラル・ターン』)のように、映画の各シーンは、それぞれ充溢した(つまり否定性のない)意味をもってしまっており、作品全体はアレゴリカルな水準による補遺を必要としない。だからこそ、クラリッサとセプティマスの「つながり」も、表層に書き込まれるしかない。だって、「書いてないと分からない」から。

 なんて長々書いてみて、ようするにこの映画版は「ヘリテージ映画ですね」で十分な気がしてきたが。