身勝手な人とまじめな人

 連休の最終日は来週の講義準備に明け暮れる(まだ暮れてないけど)。連休中の読書と映画。

ある放浪者の半生

ある放浪者の半生

 必要に駆られて読んだという時点で「入り口」から間違っているのかもしれないが、いまひとつ。なんというか、乱暴な感想だけ述べておくと、「子供」だなあ、と。こういう私小説的な作品が「子供だなあ」と思わせるのは、当たり前なのかもしれないが。しかし身勝手でわがままで世界への配慮を欠いたこの主人公に、どういう態度を取ってよいのやら、迷う。

クラッシュ 《ヘア解禁ニューマスター版》 [DVD]

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 J. G. バラードの変態小説を変態映画監督のクローネンバーグが変態映画化。

 ところが、「すごくまじめな人たちの物語」に見えた。性愛の欠如を埋めるべく、交通事故という出会いの瞬間に全てを賭け、その瞬間をあの手この手で「再現」しようと試みる人たち。ジェイムズ・ディーンの死亡事故を再現して、それを観覧し性的興奮を覚えるという場面に至って、「再現=表象」の問題構成は前面に出てくる。死亡事故という出来事=享楽とその再現。そしてそれは畢竟「再現」でしかないことに、そして再現では性愛の欠如を十全に埋めることは不可能だという事実に直面した登場人物が向かう先は……。

 これは、「倒錯的な性愛」の物語ではない。性愛をまじめにつきつめたらこうなりました、という物語。登場人物たちのまじめさというのは、つまり「享楽せよ!」という定言命法にどこまでも忠実に従う「まじめさ」である。それを達成するには、彼ら彼女らは数々の「再現=表象」を渡り歩くのをやめて、その向こう側へと行くしかないのだが、「交通事故セックス」という享楽の形式において「向こう側」に行くことが意味するのはただひとつ、死しかない。いや、むしろ最後の台詞が物語るように、享楽は「次回こそは……」という引き延ばしのうちにこそ存在するのであろう。死を、享楽をぎりぎりのところで先延ばしし続けること、再現=表象のこちら側に、ちょっとでも油断すれば「向こう側」に引きずり込まれるようなあやういバランスを保って留まること──これすなわち生である、という「普遍的物語」なのである。この作品は。