日帰り大イベント

 あいかわらず「研究」カテゴリーではないんですが、本日は日帰りでTAGTAS(Trans-Avant-Garde Theatre Association)の設立会議へ。ドゥルーズガタリ風にid:takashimura氏と連名でレクチャー。

 まずは設立「マニフェスト」。これが、かなりいいもので、できるだけ多くのみなさんに読んでいただきたい。いずれウェブ上で読めるようになったらお知らせします。

 レクチャーは、聴衆がほとんど前衛演劇の実作者たちということもあり、得難い経験であった。というか、こちらとしては非常に制約の少ない形で話せて、楽しかった。(聴いていたみなさんは、「そうは言われても……」という制約だらけのところで活動しているわけで、楽しいどころではないだろうから、申し訳ないかぎりだが、これは仕方がない。でも、反応は上々でほっとしました。)

 今回の個人的収穫としては、「系譜学」についてかなりクリアなアイデアが得られたことだろうか。歴史を学び捨て、そこからこぼれ落ちた経験を拾い直し、新たな系譜を引く。それによって、必然として見えていた現在から、「少しだけ違う現在」を覗き見る。

 上記のアソシエーション、演劇の専門家でもないのに今後も関わることになりそうだが、特に「TAGTAS大学」と雑誌の編纂などで貢献できるだろうか。

 7時に会が終わって、その後の交流会は失礼しようと思っていたが、思わずノリで居残ってしまい、京都に帰ったのは日付が変わってから。

 行きの新幹線での読書。

未来派左翼〈上〉―グローバル民主主義の可能性をさぐる (NHKブックス)

未来派左翼〈上〉―グローバル民主主義の可能性をさぐる (NHKブックス)

 今回も大活躍だったヴィルノとの関係がクリアに出ている。ネグリヴィルノの言うマルチチュードは、指示対象としてはほぼ同じと考えてよいが、そこに賭けられた政治的可能性の評価が正反対。ネグリはひたすらに「正」の側を見て、マルチチュードに抵抗の可能性を見るが、ヴィルノにとってのマルチチュードはポストフォーディズム下で組織化された特異的個人のネットワークであり、「負」の側面に力点がある。どちらが正しいという評定をするつもりはないが、少なくともネグリ的アジリ、つまりプレカリアートの「煽動」は、どうなのよ、と思ってしまう。ヴィルノは60年代の労働からの離脱運動が70年代以降のポストフォーディズムへと、皮肉にも弁証法的に収奪されたという「系譜の引きなおし」を狙っているわけで、しかもポストフォーディズムは支配的なものというよりは勃興的なものととらえられるべきだろう(と、思う。違うかも)。そう考えると、ヴィルノが目指すのは「未完のポストフォーディズム」を、「少しだけ違う現在」へと練り直すことではないのだろうか。ネグリの(失敗の重みが感じられない、ひたすら元気な)急進主義よりは、説得される。