写真は昨日。散歩風景。歩いて行ける範囲にこんな土壁の路地があったとは。
本日は平常営業。と思っていたら、大学院のオムニバス授業、今週が私の番であることをすっかり忘れていて、というか、スケジュールを聞いてなくて(しかし、本当に聞いていなかったのか、と言われると自信がないのだが)、大穴を空ける。
- 作者: 東浩紀,北田暁大
- 出版社/メーカー: NHK出版
- 発売日: 2008/04/25
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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本日届いて、授業の合間などにパラパラ。若き論客たち、などというと上から目線だが、私と大まかには同年代の人たちだけで構成された、注目と期待の一冊。
注目と期待をするからこその辛口だが、鼎談と論文による構成に新しさがないのはないものねだりとして、この「雑誌」に、あるべきものとしてねだりたいのは、80年代のニューアカ以降、一方には「直接的に政治的な」批評=研究、他方には蛸壺にはまったような批評言説群があり、この、どうにも閉塞した状況を突き破る何か、ひとことで言ってしまえば『批評空間』以後の「何か」なわけだが、その「何か」は残念ながら見えてこないような感触。
もちろん、当人たちもそのような「思想地図」を意識して、そこになんとかブレイクスルーを見いだそうとしているわけなのだが。「国家とナショナリズム」という、上記の80年代の思想と90年代以降の思想において決定的な分断のあるテーマを選んだのはその意味で慧眼であり必然なのだ。
具体的には、社会構成主義的な国民国家観(80年代)と、暴力装置としての国民国家観(90年代以降)ということだが、社会構成主義的な国民国家観(例えば「想像の共同体」)の隘路はとっくに見えていたのであり、私自身それを『現代批評理論のすべて』で書いたつもりである。つまり、これはイデオロギー論の基本だが、イデオロギーが「構築的」なものである、と言うだけではイデオロギーの批判にはならない。イデオロギーは、それが虚偽意識だと分かっているにもかかわらず/分かっているゆえに働くものなのであり、問うべきは「虚偽意識/真性の意識」のさらに外部なのだ。で、いつの間にかその名前を最終審級として触れることに一種のためらいをともなうことになってしまった柄谷行人が言い続けている「超越論的批判」とは、そのような意味でのイデオロギー批判なのである。
レイモンド・ウィリアムズとつきあい続けて分かってきたのは、ウィリアムズがブレヒトから取りだした「複眼視」とは、まさにこの超越論的批判を行うための実際的行動指針にほかならない。複眼視において国民国家は、自らに圧倒的な暴力を行使するフィクションである。複眼視とは、ぶん殴られながら、ぶん殴られている自分の血しぶきの軌跡を分析するような「構え」である。その意味で「複眼視」は、アイロニー、もしくはユーモアの一形式たらざるを得ないのだが、柄谷が「ヒューモアとしての唯物論」で述べたのはまさにそういうことではなかったか。
ニューアカでもなく、カルスタでもなく、という否定的な位置取りだけは分かるのだが、その「否定」のあり方、つまりエディプス的批判でもなければ単なる忘却でもないような「否定」のあり方を、もう一度問い直してもいいのではないか、なんて、斜め読みして書くには無責任でありますが。