合間のアクション

 から、『アレクサンダー大王』。

 ファシズムコミュニズムの闘争という大文字の政治アレゴリー以外の部分が気になる。アンゲロプロス作品は、演劇的アクションの合間の、「移動」を執拗に見せる。つまり、踊るとか、取っ組み合うとか、叫ぶとか、演劇的な盛りあがりのモメントよりも、そこに向かう、もしくはそこから去る動作が過剰にフィルムに収められるのだ。集団が、とぼとぼと、決められた立ち位置もしくは舞台袖に歩いていくような姿。あたかもそれは、素人劇団の役者が、主なアクションを終えた後に、舞台上のキャラクターを忘れて素に戻って、舞台袖にはけていく姿を延々と見ているような感じ。そこに生じるのは、眠気でなければ異化効果とでも言うしかないものである。そしてそれが、すっかり疎外されつくした映画という表現形式に本当の意味での「アクション」の水準を導入するためのものであるのは分かり切っているのだが、そうはいっても眠気と戦うのがつらいことは確か。

 そんなことよりも、かつて大人買いした、このアンゲロプロスのボックスセット、黒い部分が真っ黒につぶれていて非常に不満。場面によっては何が起きているのか分からない。