再論

ムーたち(2) (モーニング KC)

ムーたち(2) (モーニング KC)

 どうも大きなインパクトを受けてしまったようで、再論。

 このマンガの構成原理は、昨日触れた「ゲームのルールの徹底」のほかにもう一つある。それは「偶然性と必然性の脱臼」とでもいえるもの。

 一般論として、「偶然」には二種類ある。

 ひとつは、例えば鳥のフンが頭に落ちてきた、というように、単に「原因が存在しない」という意味での偶然。

 もうひとつの偶然とは、例を引き継ぐと、同じ日にもう一回鳥フンの爆撃を受けたというような「原因が存在しないのに事象が反復する」という意味での偶然。

 55話「凡跡的」や58話「3連鳥」はまさに、この二種類の偶然をめぐるものである。「凡跡的」は、公園で、(前者の意味での)偶然に出会った三人が、その偶然に驚くのだが、実はその状況が反復されていることが示されたとたん、「なんだ、たいした偶然じゃない」と盛り下がるという筋(わかりにくくてすみません)。本当は、その公園で、26年前にその3人が出会っていた事実(後者の意味での偶然)の方が驚くべきことなのに、二つの偶然のヒエラルキーが逆転されている。「3連鳥」での、「3回立て続けに頭に何か落ちてきた」ことより「3回立て続けに頭に何も落ちてこなかった」ことの方がすごい、という父の主張もしかり。

 後半で活躍する規理野氏は、世界の出来事をすべて数値化し、反復パターンを見いだすことによって未来を予測してしまう。彼は後者の「偶然」を徹底的に記録することで、前者の偶然を征服しようとする人物である。

 ところで、この二種類の「偶然」、特に後者は、精神分析にとって決定的に重要である。出来事は、一度しか起こらなかった場合は(前者の偶然である場合は)何の心的インパクトも残さない。ところが、同じことが、原因なしにもう一度起こった場合、二度目の出来事によって一度目の出来事が逆照射され、そこに意味が付加される。意味とは、「不在の原因が存在する」という不安のことである。

 精神分析におけるこれらの偶然については、以前も紹介したこの本を参照。

精神分析と現実界―フロイト/ラカンの根本問題

精神分析と現実界―フロイト/ラカンの根本問題