交換二題

 続きましてはこれ。

 強烈なモノを観てしまった。まあしかし、『第三の男』に続き、映画零年の幕開けを飾るにはふさわしい名作であろう。ある意味この二作品は対照的。『第三の男』は、女性の象徴的交換によって成立するホモソーシャリティの挫折の物語である。というか正確には、ホモソーシャリティを放棄することによって交換が停止する──ホリー・マーティンは、アンナを「譲り受ける」ためには、ハリー・ライムの「一味」になる必要があるが、それを拒否する。ホリーは、アンナに対する欲望をつらぬくならばハリーとの共犯関係に入るべきであり、プロットの構成上はその方が説得力さえある。かわりにホリーの「動機」となるのは人道主義的正義感であり、むしろその空虚さばかりが際だつのである。一方、「カウボーイ」は初めから女性の間での交換の対象になることを欲望し、そうすることで自らのホモセクシャル・パニックとの折りあいをつけようとする。(そのパニックがどうして生じたのかについては、ガールフレンドと自分に対するレイプの「トラウマ」という説明がつけられるが、これはとってつけたような「言い訳」くさいなあ、と思う。)ジョー・バックは自らを交換の対象とすることを、男性性の誇示だと思いこもうとするが、もちろん女性化以外の何ものでもない。したがってラッツォとの間に生じる関係はホモソーシャリティではあり得ず、二人の関係は破綻を運命づけられているわけだ。