アクション!

 本日まで東京。

 土曜日は告知したレイモンド・ウィリアムズ研究会。こちらこちらに報告があります。

 個人的には頭をかかえることになってしまった。私は結局のところ、大貫氏の発表の結論にあった、ルカーチ−ジェイムソンの「全体性」の系譜で仕事をしてきたつもりだが、氏はModern Tragedyから、この系譜とは別の「全体性」(totalityではなくウィリアムズ的wholeness)の批評的可能性を見事にあぶり出してみせたのだ。「ナラティヴではなくアクション」というスローガンとともに。言いかえれば「最終解決か長い革命か」ということであろう(違う?)。

 そう言われてみると、私が専門とする戦間期の前衛的小説群は、まさにこの問題、つまりナラティヴをいかにアクションにするか、という問題と格闘し続けている。いっぽうでそれは、ウィリアムズの仮想敵のひとつであるケンブリッジ派の人類学のごとく、疎外論的にギリシャ悲劇の向こう側に「アクション」を見いだそうとする身ぶり、有機体的社会への単純な郷愁という身ぶりにも陥りうる。ウィリアムズがその身ぶりの魅惑を十全に理解しながらそれを「方法的」に利用したのならば、30年代モダニズムはどうであったか、そしてさらには、アクションをナラティヴ化してしまわない批評言語はいかにしてあり得るのか──このような問題設定が頭をもたげ、これは(私にとって)長い戦いになりそうだと嘆息したわけです。

 あとは、もっとアレント読もうという動機が生じたことは収穫か。

 予想通り、朝まで歌唱訓練。

 日曜は『愛と戦いのイギリス文化史』の20世紀後半版の立ち上げ研究会。

 「エコロジー」がキーワードとして浮上したのは、(昨今のエコ言説に、単に反吐の出る思いをしているので)意外であったが、話が進むにつれて納得。いっぽうではエコロジーはイギリスに連綿と続く有機体論の問題であり、また20世紀の終わりから今世紀にかけては、ひとことで言えばグローバリズムの問題でもあり、「エコロジー」によってすくい取れる問題系の広がりはかなりのものなわけだ。

 私は車に乗って二酸化炭素を吐き出しつつ、関西のFM COCOLOをよく聴く。最近、「チームマイナス6%」とかいうエコロジープロパガンダ番組があって気持ち悪い。「エコロジカルなライフスタイル」が必死に喧伝されるのは、それをグローバル社会における市民性の一要素としようという努力であるように思える。二酸化炭素の排出量削減は個人の生活の努力でどうにかなる類のものではなく、政策的な水準の問題なのだ。それを「ライフスタイル」に還元するのは、エコロジカルなライフスタイルを採用することによって、グローバル市民としての「投票」を行おう、という「呼びかけ」なのである。しかしそれは、平板で平等なるグローバル社会の市民ではない。あくまで先進国の市民としての正しいライフスタイル。

 とか妄想しながらも、ちょっとホームシックになったとうちゃんは、日曜はあわよくば帰ろうと思っていたが無理に決まっている。