スカラーシップ・ボーイの憂鬱

大石俊一『奨学金少年の文学──ジェントルマンとアンチ・ジェントルマンのはざまで』(英潮社新社、1987)

 古書で入手。大石俊一さんといえば、以前『「モダニズム」文学と現代イギリス文化 (1979年)』を読んで感銘を受けたものであるが、やっぱり、ファンです。

 労働者階級出身であるが奨学金を受けて大学教育を受け、作家や批評家といった知識人になってしまった人たち。ジョージ・オーウェル(は大学を出ていないが)、D. H. ロレンス、レイモンド・ウィリアムズ、リチャード・ホガート……

 彼らが、イギリス文化において重要な位置を占めたのは、奨学金を得ることによって階級移動をなし遂げ、自分の生まれたコミュニティから疎外されつつ、同時にブルジョワ文化にも違和感を覚え続けるような「はざま」の位置にいたからこそである、という議論。Us and themではなく、両方の階級が同時にusでありthemでもあるような位置。イギリスの「二つの国民」の両方に属しつつ、同時にそれらを対象化できる位置。「奨学金少年型知識人」というのは大変に説得力のあるカテゴリーである。

 レイモンド・ウィリアムズが『文化と社会』の結論で称揚する「エグザイル」というのは、要するにそういうことなのだろう。

 エグザイルといえば今はすぐにポストコロニアル批評の問題圏に引きこまれてしまうが、基本論理は同じことである。コミュニティからの「根こぎ過程(deracination)」を経験し、新たな生活条件にも所属しきれないゆえに「はざま」の位置に立つことを余儀なくされる。ただ、そこに介在する歴史的条件と暴力に違いがあり、それをちゃんと見なければならない。

 ただ(脱線しているが)、どうも私にはもうひとつの「エグザイル」があるように思える。一言で言えば、「都市文化としてのエグザイル」。サイードは先だって出たインタヴュー集で、「世俗性」を二つに分けて論じており、ひとつはいわゆる世俗性であるが、もうひとつは都市文化の洗練としての世俗性であるというふうなことを言っているが、エグザイルも都市文化的洗練の指標になってしまう側面があるような気がする。それは一面には都市が上記のような「はざま」にいることを許容する空間である(近代都市住人はむしろそれを楽しむ──「湯浴みする」──わけだが)ということもあるだろう。もう一方で、上記のような痛々しいエグザイル経験が都市文化に包摂されるという側面もある。

 私は何を言っているのか。いや、単に、区別しましょうよということ。どれが「本当の」エグザイルか、などと間違った問題設定はせずに。

 戻って、こういう「大きな物語」というか大胆な図式化を行いつつ文学を社会・政治に開く作業は、イギリスはもとより日本の英文学では歓迎されないが(案外アメリカの英文学には多い気もするが)、こういう仕事をずっとやってきた人がいるということは大書すべきだろう。