公共性

 発表準備にかまけて先送りし続け、締切の迫った大学の書類書きで一日が終わる。

 外部の組織に、「うちの大学、こんな感じだけどどうよ?」と伝え、評価してもらうというもの。

 ある書類は「大学の社会貢献」についてのもの。大学とは健全な形で存在するだけで社会貢献になるのかと思ったらそうではないらしい。これは、私企業がイメージ戦略として社会貢献を訴えるのとはちょっとわけが違う。というのも、私大とはいえ国から補助金が出ているわけで、なぜ補助金が出ているのかと言えば大学の社会や地域に対する公共性が高いからである。

 しかし、どうやら「社会貢献」にカウントされるのは、公開講座であるとか、生涯教育であるとか、そういう類のもの。何かが間違っている。教育を施し、人材を輩出するという本来的な仕事は「社会貢献」ではないのか。

 これ、都市部とそれ以外で事情は変わってくるだろう。数えるほどしか大学のない県であれば、その公共性は非常に高くなる。大学が全くないことは大変に困ることだから。経済的理由で自分の故郷を出られなかったら大学進学はあきらめろ、ということになる。共同体にとって、大学はあるだけでありがたい存在となる。

 都市部だとそうはいかない。大学として存在しているだけでは「他にもいくらでもあるからね」と言われておしまい。従って、とってつけたような「社会貢献」をアピールする必要が出てくる。

 私が今日書いていたような書類が「大学評価」として一律に適用されているのだとしたら、それは都市のロジックを一律に適用していることになる。世界の大学ランキングなどがあるが、あれはまったく意味がない。どれだけ優秀であろうとも自宅から通える大学にしか行けないと想定すると、その大学がハーヴァードとくらべてどれくらい悪い大学かなど知っても何の意味もない。畢竟、大学は比較不可能なのだ。

 などというメッセージを、よくよく読めば分かるようなかたちで折り込みつつ、書類書きの一日であった。