- 出版社/メーカー: 紀伊國屋書店
- 発売日: 2006/10/21
- メディア: DVD
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めでたくDVDで入手可能となりました。2001年ベルリン映画祭で上演された「最新復刻版」のDVD。私は映画というメディア自体に思い入れはないので、映画史上この作品が云々ということに興味はないが、1927年公開という時代性を考えると、やはりすごい作品である。
私にとって気になる作品は、どうやら「ラストシーンは大人の事情でこうなってしまったが、それを括弧に入れればすごいことになってる」作品であるようだ。『メトロポリス』も、ラストの想像的解消を除けばかなり不気味な歴史性を持っているのである。労働者階級に「媒介者」の到来を説くマリアは、暴動を防ぐための安全弁なのであり、一方人造人間マリアは、人間マリアによって制御されていた暴力性を「解放」する。この映画について強調されることの多い暴動シーンのスペクタクルよりもそれをよく表現するのは、地上の「機械」が破壊されたことによって地下の労働者街に水があふれ出す、あのカットである。地下街の床(?)の亀裂から、水がしみ出て広がっていく様に、私はボヴァリー夫人の死体の口からあふれ出す汚物を想起する。Zで始まるラカン派批評家ならば「リアルの噴出がどうたら」と言い出しそうなあのカット(実際、どこかで言ってるかな?)。ちょうど最近観た『Vフォー・ヴェンデッタ』での、少々白々しい「民衆の蜂起」と比較して、はるかに「不気味」。
おそらく、この不気味さは、ドイツのその後の歴史を知っていることから来る不気味さなのであろうけれども。(映画はフリッツ・ラングのニューヨーク体験から生まれたのだが。)
それはともかく、二人のマリアは文学(的なもの)のアレゴリーであり、マルクス主義(的なもの)のアレゴリーである。さらに広く取って、文化のアレゴリーと言ってもいいかもしれない。一方のマリアは暴動を制御(抑圧ではない)し、もう一方はそれを扇動する。もちろん映画全体は暴力の噴出を言祝ぐよりも、「頭脳と手の間には心(=文化?)がなければならない」というスローガンが示すように、それへのフォビアを基調とするのだが、それを表現する過程で生みだされた暴動の描写(有名なマリアの裸踊りも含め)が強烈すぎてプロットを裏切ってしまう。