予言の成就

 9月に愛知県で地震が起きる、とかいう「予言」の影響で、多くの人が防災グッズを買い求めた、というニュースに接して、もちろんこの「予言」ははずれたわけで、予言師は「トンデモ」でした、ということでそれはいいのだが、実のところ実際に防災グッズを買い求めるという行動を引きおこしたという時点で、この「予言」という言語行為は大成功を収めたわけである。そもそも「成功する」予言とは、敏感に人びとの欲望や不安をキャッチして、それに語りかける言語行為なのである(それをいったら占いも同じ)。

 なんてことを考えているのも、かなり語弊はあるものの、そのような意味での予言と同じ「ジャンル」であるSF作品を読んでいたからなのだが。作品は新訳で出ていたので再読したこれ。

幼年期の終わり (光文社古典新訳文庫)

幼年期の終わり (光文社古典新訳文庫)

 上記のような意味で、この作品がどのような「人びとの欲望や不安をキャッチ」しているのか、と考えるとき、この作品と冷戦との(明白な)関係を云々しつつも、この作品が「単純にクラークの帝国主義的・植民地主義的思想のあらわれときめつける向き」(427)があるなどと書いてしまう解説は、寝言か、と思う。多分この人の頭の中では、冷戦というのは二つの超大国がにらみあうだけの『スター・ウォーズ』並に単純化された世界のことなのだろう。脱植民地化や新植民地主義、または地政学的外部性の消失と生産、それと資本主義の「限界」の問題──冷戦というラベルを貼られた時代はそういった要素の混合体なのであって、クラークの作品は、そしてさらに広くSFは、それも含めた「冷戦的想像力」とでも名付けるしかない総体の産物であることを改めて痛感する。

 この作品における人類と「オーヴァーロード」との関係は、植民地と宗主国との関係の「単純」なアレゴリーであるとはもちろん言えなくとも、帝国主義の残滓(と脱植民地化闘争)という条件なしには成立し得なかったものであること、これを考えなければ、なぜSFの黄金期は過去のものとなったのかは理解できまい。言いかえると、このクラークの古典的名作がそこはかとなく「なつかしい」のは何故かを理解はできまい。そう、SFは──ここで出版部数や映画の興行成績などの量的データを持ちださないでいただきたいが──すでに過去のジャンルになっており、それでも読み、論じることに価値があるとすれば、ジャンル愛好的な視点ではなく、それこそ広く社会的象徴行為として読んでこそだろう。

 具体的には、この作品で興味深いのは人類の「超進化」であり、そこに付加された「希望」でも「恐怖」または「不安」でもない、なんとも筆舌につくしがたい感情的備給であろう。それは、「単純に」言えば、植民地の奴隷が支配者を超えて発展をなし遂げるという不安とも希望ともつかないヴィジョンである。この作品における読者の感情移入の対象が、人類から、老いた中間管理職的種族のオーヴァーロードへと移るということ(けなしたのでフォローしておくと、そのように「解説」で指摘されていてそれ自体は正しい)は、その視点から見てこそその歴史的意義が明らかになる。再び「単純に」言えば、ここに見いだされるのは、脱植民地化する世界への不安と、それを「人類の超進化」というヴィジョンへと昇華しようとする非常に倒錯した身ぶりである。これをさらに、「SFが不可能な世界=ポスト冷戦への不安」の二重のアレゴリーとも読みたい誘惑にかられるが、クラークほど無意識過剰な作家がそこまで意識していたとはもちろん思わない。ただ、そうだとすればそのアレゴリーは上記の意味での「予言」なのであり、それは哀しくも「成就」してしまったのかもしれない。