そうそう、身体の不自由さは最近も痛感していた。ゴルフですよ、ゴルフ。漫然と打っていても、何が悪いか分かっていないので上達しない。まあ、サラリーマンのたしなみということで、深入りはすまい。しそうだけど。
A Voice and Nothing More (Short Circuits)
- 作者: Mladen Dolar,Stockholm Inst Of Transition
- 出版社/メーカー: The MIT Press
- 発売日: 2006/02/03
- メディア: ペーパーバック
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ジジェクとの共著もあるラカン派批評家。テーマからして例のラカン派VSデリダ派の論争を期待するが、その通り。デリダにとって「声」が西洋形而上学=ロゴス中心主義のまさに中心にあるなら、ドラーは声を逆に補遺として、さらにはラカン的〈対象〉として読み替える。デリダが亀裂を読み込むところにラカンは充溢を見いだす、という一種の裏返し・堂々巡りの再演。そもそも、
- 作者: ジャック・デリダ,林好雄
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2005/06/08
- メディア: 文庫
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はフッサール論なのに、それへの批判の書にフッサールのフの字もないのはどうなんだろう、というのは真面目すぎるのだろうか。
ただ、「声」というなかなかとらえどころのない対象を扱う批評としては要チェックかな、と。『声に出して読むなんとか』が大手を振るっている中ではデリダ的な脱構築が必要だとは思いつつ、「ほぎゃー(ミルクよこせ)」という赤ん坊のこの上なく充溢した声に追いまくられる生活にあってはそれも空々しかったり。