公平性

 本日(もう昨日)は、本来狼協会の例会で東京の予定だったのですが、諸事情により自宅待機。関係者のみなさま、すみません。しかも、結局待機のまま一日が終わる。

 しようがないので先延ばしにしていた採点作業。100人分のテスト×3の採点をサボっていたので、まるまる一日かかる。

 昨今の大学では、教員による恣意的な成績評定の不公平さを解消するために、かなりリジッドな評定基準があったりする。Aは何パーセント、Bは何パーセント、みたいに。理不尽に落としまくる教員による不公平を防ぐという意味ではまったく否定しないが、これはこれで問題がある。問題とは、成績評定が純粋な「相対評価」になるということ。「こいつには単位やれんだろう」と、主観的(というか、客観的)には思う場合でも、「公平性」という観点からは単位を出す必要が出てくる。ここに、教員もしくは大学が提示するスタンダードは存在しない。相対評価である以上、在籍している学生の平均値に対してどれだけの数字を出すかが問題となるわけだから。「ここまでは学んでくださいね」という絶対的基準がなし崩しになってしまう。なんというか、現在の大学の病理の現れであり結果であるような気がしてならない。

 それとは関係ないが、成績を出す決断の瞬間はいつもながら気持ちが悪い。試験の答案ひとつをとっても、同じ不正解でも「ああ、気持ちは分かるんだけど、バツ」という場合と、「お前、その間違い方はナシだろう」という場合がある。どちらの場合も、ゼロ点。逆に、同じ正解でも「ああ、こいつ、分かってないなあ。でも、不正解にはできない答えなんだな、これ」でマルの場合と、文句なく正解の場合があり、どちらもやはり同じ「正解」となる(問題の作り方がまずいと言われればそれまでだが)。そういう肌理をすべて切り捨てて数値化するのが成績評定であり、成績を出す瞬間というのは精神分析での「転移の切断」に似ていなくもない。

 とかなんとか考えつつ、たっぷり一日、採点以外のことをせずに終えるのはそれなりにブルー。