「労働契約法」と通称される法律が検討されている。来年には国会に上程されるらしい。私、法学部出身のくせに法律はずぶの素人なのだが、検討されている「労働契約法」は、労働基準法とはまったく異質な法律らしい。労働基準法は、建前としては誰かが訴えなくても基準に違反すれば罰せられるという、強制性と罰則をともなうものであるのに対して、労働契約法は民事法であって、要は「当事者が訴えた場合のルール」を定めようというもの。
こういった法制は常に二面的である。現在の「流動化」した雇用マーケットにおいて、非正規社員・契約社員を不利益から守るための法制になりうる可能性がある反面、法律として定めてしまうことによって、「泣き寝入りが合法化」されてしまうのだ。民事法である以上、労働者は不満があるなら訴えねばならないし、訴えなかったらそれでおしまい。
だが、本当に訴えるのか。
日本にはそのような「契約」の慣行は存在しない。雇用時に微に入り細をうがって労働条件を確認するようなことをしたら、そもそもまず雇われないだろう。と、少なくとも雇われる側は思っている。機にさとい雇用者は、この労働契約法にのっとって、それこそ微に入り細をうがった契約書をつきつけるだろう。被雇用者がその時点でNoと言うことはできない。十中八九、この法律は「合法的に首を切るための法律」となるだろう。
だが、この法律を歓迎する経営者は経営のセンスがないと言わざるをえない。本当にここで想定されるような、リジッドな契約に従った雇用関係の文化が根付くとして、そのような関係において雇われた労働者はいかなる原理に従って働くだろうか。もちろん、契約の範囲外の仕事は一切しない、という原則で働くだろう。誤解を承知で放言するならば、日本の大学に雇われている「ネイティヴ講師」がいい例である(例外はもちろんいるし、今私の身辺には奇跡的な例外が存在するが)。
日本での雇用とは結婚に似ていて、雇用の瞬間にはものすごく微妙な「間合い」があり、そのような間合いがあるからこそ、雇われた側はいつの間にか余剰価値を組織にもたらすという不思議な現象が起きるのだが、「労働契約法」的な雇用関係においてはそのような間合いは存在しない。非常に不毛な雇用関係の風景である。そんなものが全面化した国は不幸な国である。でも、その風景は現実のものとなるんだろうな、という避けがたい予感だけはある。