正解のある教室

 昨日『ドラブン』を紹介し、文学研究者に教えられること、という話を書いたが、その問題について少々内省。受験で問題に対する正解を出す作業に追われてきた学生たちに、「真実はひとつではない」「正解は複数ある」ことを教えるのに文学は好適であること、これは疑いがない。それ以前に「何が問題(であるべき)か」という問題発見をすること、これも高校までの勉強と大学からの学問の大きな差でもある。

 ただ、私は専任になって以来、むしろ正解のある授業をやる方向に流れている。理由は簡単で、「正解はひとつだけではない」という脱構築を行うためには、そもそも学生側に「ひとつの正解を追い求めよ」というイデオロギーが植えつけられていなければならない。それが、植えつけられていない疑いがあるのだ。ここから先は大学の質によってくると思うが。つまり、いわゆる「受験競争」の必要な大学と、そうでない大学があるということ。

 義務教育の現状にそれほど明るくないので分からないが、これは「レヴェル」の問題でなく、現在の義務教育の質の問題かもしれない。例えば「総合的な学習の時間」に関する学習指導要領を見ると、そのねらいとは第一に「自ら課題を見付け,自ら学び,自ら考え,主体的に判断し,よりよく問題を解決する資質や能力を育てること」だそうである。全然ダメだと思う。小学生が本当に「主体的に判断」したら、学校には行かずに一日中遊び回るだけだろう(少なくとも私が小学生ならそうする)。こんなリベラルな理想を掲げたり、一方で愛国心なんて教えている時間があるなら、漢字ドリルにでも回した方が得策である。こと義務教育に関しては(他のことに関してもそうかもしれないが)私は保守的で、かつて反省されたような「詰め込み教育」をやらなければどうしようもないと思っている。現実の世の中には「正解は複数」あることは、その後学んでも遅くない。というか、社会に出たらいやでも学ぶだろう。

 追記:「大学」というカテゴリにあてはまらないので、「教育」というカテゴリを作ってみました。