反物語としてのひきこもり

 昨日は卒業式。私は一年目で、四年生のゼミもないし、直接教えた学生が卒業するわけではないので少々傍観者。本学では卒業生が全員マントと角帽を着用する。確か、東大でも始めたんだっけ。これはこれで、壮観でよろしい。かたや、空き時間に読んでいたのは・・・

NHKにようこそ! (角川文庫)

NHKにようこそ! (角川文庫)

 考えてみれば、ひきこもりやニートというのは、その「現実」なるものは括弧に入れるとして、かねてから文学的題材の中心にあり続けていたはずのものだ。いや、かつては高等遊民だったのが、現在は下等遊民である、といった反論はあり得るが。先日の『大航海』の特集は、文学者も書いていただけあってそういった考察が見られた。

 ところで、「ひきこもり」を物語化する際に障害となるのは、ひきこもりという存在のありようがどこまでもアンチクライマックス的であって、そもそもあらゆる外的刺激から遠ざかり、通勤や通学が与えてくれる時間の区分もない生活とは、始まりとクライマックスと終わりを持つ「物語」とは定義上対極にあるものだ、ということだろう。

 物語るに値する出来事が起きないこと、変化のないことがひきこもり的生活の本質だから。

 で、話題のこの小説は、ひきこもりを小説にして一体どうやって「終わらせる」つもりだろうという興味を持って読んだが・・・ネタバレになるのでここまで。