「ニート」って言うな!

 久々に車ネタ。二年落ちを買って一年が経ち、三年車検にドナドナ。代車はカローラ・ツーリングワゴン。名車です。違う車を乗り回せるのも車検の醍醐味か。

「ニート」って言うな! (光文社新書)

「ニート」って言うな! (光文社新書)

 「ニート」という言葉が一人歩きをし、「ひきこもり」や「犯罪予備軍」というネガティヴなイメージを負わされていることに対する憤懣、またニート論が、雇用構造や労働市場の問題から個人の資質の問題にずらされていることに対する憤懣、これには大いに共感する。

 でも、なにかおかしい。この本。第一部の本田由紀氏の議論に集中してみると、本田氏の主張、つまり「ニートという言葉はカテゴリーとして不適正であるだけではなく、有害である」という主張の、「ニート」という言葉は二つの意味を負わされている。ひとつは上記のように通俗化されたニート、もう一つは統計学上のカテゴリーとしてのニート

 本田氏の主張は以下の通り。現在のニート論議で「ニート」にカテゴライズされている層には、職がなく、具体的な求職活動をしていないけれども働く意欲がある層(非求職型)と、働く必要・予定・意志がない層(非希望型)の両者が算入されている。玄田有史氏などが旗振りとなって「現在問題なのはニートだ、フリーターではない」というキャンペーンが行われる際、この「非求職型/非希望型」が同じ「ニート」という名をつけられている。その結果、ニート問題の核心(雇用構造の変化による就職機会の減少)がぼやかされ、個人の資質や心(「人間力」)の問題にされてしまい、ニートという言葉にネガティヴなイメージが付与される。要は、「働きたくても働けない層」が一番の問題なのに、「ニート」というラベルを貼られることで、個人の問題にされてしまうということだ。

 問題は、本田氏が玄田氏の本を本当に読んで(読んでいるはずだが)、このような批判を繰り出しているのか、という点だろう。『仕事の中の曖昧な不安』において玄田氏がなし遂げた発見とは、まさに「非求職型/非希望型」の区別の曖昧性なのであるから。玄田氏は人間の動機というものについての深い省察に基づいて仕事をしている。つまり、自分が本当に自律的に職を求めているのか/求めていないのかという区別は、本人にとっても曖昧なのものであって、そこに個人の自律性という幻想を持ちこむと、雇用構造の変化という真の問題が見過ごされてしまう、それがまさに玄田氏の主張だったからである。

 ということは、本田氏と玄田氏の主張はかなりの部分で重なっているはずなのに、本田氏は(東大の同僚である)玄田氏をなぜにかくも執拗に攻撃するのか。それが分からない(というか、実のところ分かる気もするのだが、知ったこっちゃない)。

 それよりも、本田氏に弁証法的思考が欠如していることの方が大問題だ。レトリックのレベルで、かなり素朴な疎外論に陥ることが多い。例えばこんな記述。

 「こうした人たち[非求職型の人たち]は、今現在働いてお金を稼いではいないけれども、しごく健全で前向きな若者たちなのです」(34頁)

 このような記述が、本田氏自身が批判しようとしている「健全な労働者/病的なニート」という図式を(それを単に「非求職者/非希望者」というカテゴリーにずらして)再生産していることに、ご本人は気づいているのだろうか。