余は如何にして大學教員と成りし乎

 土曜は同僚に誘われ読書会。Ulyssesをネチネチ読む。「Joyce研究家」というものの姿の一端をかいま見た感じ。

 このように、大学教員というのは平日にぶらぶらしていたかと思えば、土日返上で研究会や学会(時には大学の業務)にいそしみ、かつ研究や授業準備などに通常の「勤務時間」などあろうはずもなく、だらだらと深夜まで仕事を続けるのである。

 そもそも私が学部卒業に際して、就職活動を全くせずに大学院を受験した時には、そのように自分のペースで仕事が出来る職業として大学教員を目指したような気がする。まあ、職業選択の動機なんて曖昧なものであるので、本当のところはよく分からないが。

 冷静に考えれば、あの時点で大学という「業界」が斜陽であることは分かっていたはずなのに、この上なくリスキーな選択をしたわけだ。現在、修士課程および博士課程を修了もしくは満期退学したうち、常勤の職についているのは3割。残り7割は任期付きの講師や研究職、非常勤講師やアルバイトをしながら職探しを続けているということになる。しかし、人は決断をする際には盲目にならざるを得ないわけで、そんなことなーんにも考えなかった。

 そんな若者の状況はともかく、はたから見れば大学というのは、未だに特権的な職業に見えるようだ。実際そうである可能性も捨てがたいけれども。まあ、どちらにせよ、そこで「大学にも一般企業並の競争原理を」という話になる。

 客が減るので否応なしに競争しなければならないというのはまた別の話として、教員ポストの流動化ということを論じる際にかならず口にされるのが「アメリカ並みの実力主義を」云々というお題目。

 思うに、新聞記者であれ文科省の役人であれ、これを口にしている人で実際にアメリカの大学の人事考課制度がどうなっているのか、正確に知っている人はほとんどいないのではないだろうか。だって、知っていたらアメリカに「実力主義」なんて存在しないと分かるはずだから。

 例えば、最近とあるアメリカの大学の先生に聞いて知ったのだが、日本の大学であれば学科の教員全員対応募者という形で行われる面接のかわりに、 job lunchというものがあるそうだ。要は、雇用側の教員ひとりひとりと昼食をともにするという慣行。そこで、ずっと押し黙ってランチを食べ続けたりしたらアウト。軽妙な会話を成立させ、自らの人格を証明しなければならない。

 私はこれがおかしい制度だと言いたいわけではない。むしろ、とてもいい制度だ。雇う側にとっても雇われる側にとっても、相手の人格というのは非常に重要なファクターであって、一緒に食事して不快でない程度の関係性が結べない人間と一緒に働くのはキツイものがある。

 そうではなく、問題なのは「実力主義」の「実力」に、そのような「楽しく食事ができる」といったファクターはカウントされないということだ。おそらく、役人の頭の中では「実力」というものは常に数値化・計量可能なものなのだろう。「かの国では『実力の数値化』が厳正かつ効率的に実行されている」といった妄想の臭いがしないでもない。

 まあ、「勝ち逃げ」世代を見るにつけ、流動化大いに結構と思う瞬間もあるが、どうせ今それが実行されたとして、それは新規採用枠が任期付きになるといった形でしか表れないだろうから、複雑なところではある。