健康のためなら……

禁煙ファシズムと戦う (ベスト新書)

禁煙ファシズムと戦う (ベスト新書)

 「健康のためなら死んでもいい」という冗談をよく耳にするが、この冗談は健康に対する病的なオブセッションをあまりにもよく言い表していて、不気味でもある。

 というわけでこの本。断っておくと、私は逃げも隠れもしない喫煙者(いや、最近は逃げたり隠れたりして吸ってるけど)。京都に来てから私の喫煙環境は激変した。何と言っても、職場のキャンパスは全面禁煙。研究室はさすがにいいんだろうと思ったら、やはり禁煙。仕事にならないので、研究室は完全な荷物置き場。専任のくせに授業が終わったらさっさと居なくなります。

 ただ、「嫌煙権」などということが叫ばれるようになるのもよく分かる。これまでの喫煙者の傍若無人ぶりを考えれば。嫌煙者の喫煙者に対するルサンチマンいかばかりか。

 そう、この件に関してはその「ルサンチマン」が問題だ。ニーチェ君によれば、ルサンチマンは世界を「善」と「悪」に切り分けてしまう。現在の禁煙運動は、煙草と喫煙者を絶対悪とし、翻って禁煙を何の検証の必要もない絶対善だとしている節がある。で、「健康増進法」で定められた公共空間での受動喫煙の防止(「分煙」によって防げる)が、今のような全面禁煙へと一気になだれ込んでしまった。

 それを言ったら本書の著者のひとり小谷野氏も、相当のルサンチマン男なのだが、そこはプロの文筆家(と言っていいのか?)、それを「芸」の域まで高めているところがあり、その実バランスを失していない。

 さて、問題は私が自由に煙草を吸えない環境にあるということではなく(というか、おかげさまで必要な時以外はキャンパスにいないので、私をつかまえられないで困っている学生にとっては大問題だが)、禁煙運動と「国家による国民の健康管理」が合流してしまったことである。

 国家による国民の健康管理。これ、まさに、ファシズムだ。「健康増進法」の「受動喫煙の防止」の条項には何の罰則もないのに、これだけ効果的に(いや、法律の要求する以上に厳格に)「実施」されているのも薄ら寒い情景である。というわけで、この本のタイトルは大げさでも何でもない。為政者が国民のルサンチマンを利用し始めるとき、ろくなことにはならないということは、歴史の教えるところでもある。