グロテスクな教養

 昨日は岡山で高校3校を訪問。岡山で下車するのは初めてだが、余った時間で観光なんて気にもならず、直帰。

グロテスクな教養 (ちくま新書(539))

グロテスクな教養 (ちくま新書(539))

 「教養」は定期的にウェブ書店で検索しているキーワードのひとつ。『文学部をめぐる病い』の高田里惠子氏の新書、『グロテスクな教養』。

 「教養主義」関連本はかなりのペースで出ているが、その中でも本書を際だたせているのは、「教養とはつねにすでに『教養主義批判』であった」という認識だろう。つまり、柄谷行人からの引用で述べられているように、「教養とはいわば教養主義の批判にほかならなかった。〔・・・・・・〕要するに、無邪気に教養主義が唱えられた時代は一度もなかった」という認識に、本書は基づいている。つまり、極論すれば、日本に「教養」なる実体が存在したことはそもそもなかった、というわけだ。

 このような「教養」と「教養主義」の定義からは、かなりアイロニカルな世代論が導き出される。つまり、旧世代の教養主義を批判する「教養」ある若者が、いつのまにか批判されるべき「教養主義者」になっていくという連鎖。「教養主義」を批判的に論じることこそが、当の教養主義を延命させる手段にほかならないというアイロニー。『教養主義の没落』などで知られる竹内洋氏も、教養主義の消滅を嘆くことによって「真正なる教養」を保存しようとしている、「教養主義者」の典型として批判されている。

 さて、このような「教養主義論」論が陥る矛盾ははっきりしている。要は、この本自体がその連鎖に取り込まれてしまうのだ(ちなみに、ちくま新書に現在はさまっている栞は、19世紀風の、ひざに本を広げた女性が、「で、あなたは読んだの?」と挑戦的に語りかけているデザイン)。

 もちろん、著者はそれに十分意識的。それは二つの方法で回避されて(もしくは回避を試みられて)いる。

 ひとつはどこまでもアイロニカルな論理と文体。上記のような「教養/教養主義」の定義はアイロニーそのものであるし、それを語る文体は随所で韜晦にさえ近づく(嫌いじゃないけどね)。しかし、このアイロニーとか韜晦って、日本の教養主義の伝統なんだけど……

 もう一つは、結論たる第4章「女、教養と階級が交わる場所」。正直、旧制高校に代表されるような教養主義がメイル・ホモソーシャルなものであることは、明らかすぎるほど明らかなので、ジェンダーという論点を持ちこむのはそれほどおもしろくもないのだが、上記の循環への取り込まれを回避するのには有効な手段ではある。

 ここに至って、「教養」とは「(女の子が)いかに生くべきか」という広い定義になるのだが、女子大の人文系学部で教えている身にとっては切実な話題。情報量の多さと、単に語りが楽しいという点において、良書です。