「心のケア」とファシズム

 最近なにかと耳にする「心のケア」。

 JRの事故の後だとか、高校での爆弾事件の後、お決まりのように、時候のあいさつのように口にされるこの言葉。

 事件に巻きこまれ、トラウマを負った人間のための「心のケア」が必要だ、と開口一番に主張するメディアの言説には、何の心の傷もなく、トラウマもなく、柔らかいものに包まれて、赤ん坊のように過ごしたい、という漠然とした願望が感じられる。

 それが言い過ぎならば、そのような状態が人間の「デフォルト」であったのに、現代人は多くの傷を負ったかわいそうな生き物である、という漠とした前提である。

 このような言説にはきな臭いものを感じる。

 一言で言ってしまえば、「ファシズム」をバックアップするような感情がそこには伏在しているのだ。もし、無垢であったはずの社会は傷を負っており、それは純然たる起源へと還るべきだ、というのがファシズムの定義だとすれば。

 これは何も突飛な話ではない。問題になっている「トラウマ」という概念の歴史を顧みれば、それがなぜか必ず、バランスを失った社会秩序回復の時期に登場していることが分かる。

 例えば第一次大戦後のイギリス。トラウマという病名はまだ発明されていなかったが、大戦の帰還兵のヒステリーに似た症状には、「シェル・ショック(爆弾ショック)」という名が発明された。

 現在話題になっているPTSDという病名が発明されたのはヴェトナム戦争期のアメリカ合州国においてである。ヴェトナムからの帰還兵への補償のためにつくり出された概念だ。

 大英帝国没落期のイギリスと、初めての敗戦を経験するアメリカ。ことほど左様に、「心のケア」の言説は、社会統合を必要とする時代に盛り上がりを見せてきている。

 この言説が危険なのは、そこに、個人的なものであれ社会的なものであれ「傷」は後から加えられたものであり、ゆえにこれから治癒されるべきものである、人間であれ社会であれ、その全体性は恢復できる、という「失われしユートピア」の前提があることだ。その理想が、どうしても払拭できないトラウマに直面した時に何が起きるかは、歴史の語るところである。

 このような危険性に、同時代的に抵抗したものがある。その名は精神分析

 というのも、フロイト先生の教えによれば、人間は「原抑圧」という、決して分析し去れないトラウマ的な核によってこそ、人間たり得ているのだ。精神分析とは、よく勘違いされるようにそのトラウマを言語化し、払拭する方法ではない。それはトラウマと「折り合いをつける」方法にすぎない。

 また晩年のフロイト博士は「死の欲動」という概念を提唱した。私が冒頭に「心のケア」言説の背後にある欲動として挙げたものは、この「死の欲動」の定義としてぴったりであるように思う──「何の心の傷もなく、トラウマもなく、柔らかいものに包まれて、赤ん坊のように過ごしたい、という漠然とした願望」。

 「心のケア」を訴えるメディア(もちろん、メディアの言説はその受け手の願望を反映している)が、その「心のケア」によって癒しきれないトラウマに直面したとき、この社会はどのような方向に雪崩をうつのか、少々寒々しい思いである。

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Beatrice Hanssen and Andrew Benjamin eds. Walter Benjamin and Romanticism. (Continuum, 2002)

古本で購入したものが到着。本日の日記となんとなく符合。