文化だから

 昨日はTAGTAS/FORUMにて、二人羽織り講演会。講演会というよりは準備なしで、以前の「前衛の系譜学」のおさらいと、それとじつのところ連続している、『英語青年』誌上の連載の話をする。

 私は枕として、ナンシー・フレイザーによるrecognition/redistribution dilemmaの話を置く。それがあらわす現在の文化/社会、さらには文化左翼/社会(政治)左翼の分断の問題について。しかし、「文化左翼」という言葉の議論喚起力はすさまじく、誤解も含めた反応がそこに集中する。この言葉を口にすると、とたんにそこには「現実政治に関与しない観念的左翼」という、疾しさをともなう感情が喚起されてしまう。私が言いたかったのは、そのような感情が喚起されざるを得ないことこそが袋小路の原因なのであって、その系譜には、ウィリアムズの、文化と社会の分断の系譜があるということ。「どうして政治(直接行動)が文化化・美学化されてしまうのか」という問題設定そのものが、ものをみえなくさせている。そもそものはじまりから政治(直接行動)でさえも、それは同時に文化的なものでもあるのだから。

 労働運動を考えればそれは分かりやすくて、なぜ労働運動にコミットするのか、というときに、それは純粋な経済的利害関係の問題だけでは説明できず、「文化だから」というしかない側面がある。

 もちろんこれは非常に危険な話で、同じように、どうして過労死するまで働いてしまうのか、という質問に対しても「文化だから」と言えてしまう。

 しかしだからといって、「文化」を手放していいのか。昨日の議論は煎じつめればそういうことであった。

 なんにせよ、文化(左翼)と社会(左翼)の分断の根深さというのがよく分かり、ひるがえって50年代以降にその分断のプロセスに直面したウィリアムズがなぜあのような著述活動をしたのかが、とてもよく分かった。得難い機会であった。腰痛と風邪により、そのあとの飲み会は早々に退散。すみません。