霧の都

霧の都 (ハヤカワ文庫 FT 58)

霧の都 (ハヤカワ文庫 FT 58)

 どうも奇妙な小説ではあった。カテゴリーとしてはファンタジーなわけだが、色々と奇妙。おっさんが主人公だし。舞台はLud-in-the-Mistという都市(ロンドンですな)と、それに隣接する妖精の国なのだが、そのような舞台設定から想像されるような作品ではない。妖精の国の描写なんて、ほとんど幻覚だし、妖精自体はわずかにしか描写されないし。魔法のワンダーよりも、殺人事件の謎解きがプロットの軸になってるし。もちろん、これはトールキンやルイス以降の観点で見るから奇妙なだけであって、前世紀におけるファンタジーものの草創期であった1920年代の作品であることを考えると、「あり得たファンタジーのひとつ」なのだろう。

 私はマーリーズの作品をどうしてもジェイン・ハリスンとの関連で読もうとしてしまうのだが、上記の妖精の国や魔法の描写の曖昧さ、というか、「不気味さ」という点は興味深い。ラッドの人びとは、妖精の国やそこから流入してくる「魔法の果実」をタブーとして、法によって厳格に禁じる。物語はそのラッドの法の体現であるナサニエル・チャンティクリア判事を中心とする視点で描かれるが、最終的にはそのタブーが破られ、ラッドが魔術的なものに対して門戸を開いてしまうところまで行く(しかも判事自身がそのエージェントとなる)。悪役であるはずのエンディミオン・リアの、裁判での演説にいたっては、読者まで魔術的なものに魅了されてしまうような。作品中ではリアに魅了された人びとが、暴動寸前にいたるが、チャンティクリア判事が、リア的な(魔術的で猥雑な)世界とラッドの世界(「理性的」な世界)の媒介となって調停を行う。このあたりには、魔術的なものと人間の根源的暴力性への、さらには暴動への恐怖が表れているが、物語の結末はそれを「理性」によって押さえ込むのではなく、むしろ魔術的なものを体内化することで解決しようとするという道を選んでいる。要は、彼岸のものと此岸のものの区別が溶解していく物語と、人間の暴力性・猥雑性と理性との境界が融解する物語が重ねられているといっていいわけで、それとハリスンなどの考古学=民俗学の親和性、というより共有していた時代性ということを考えさせられる。