In the Cut

 風邪引いちゃった。学会以降ずっとだらだら風邪気味だったのが、本格化。頭が回転しないので、本を読む気にもならない。そこで映画でも観ることにする。で、こちら↓(ネタバレ注意)

 「メグ・ライアンが、ジェイン・カンピオンの映画で脱いだ」という話題が先行した映画だったが、まあ、そうゆう映画です。ジェイン・カンピオンの映画って、現代的な「批評」とか「理論」を悪い意味で先取りしているようなところが常にあって、どうも「萎える」わけですが、これもそう。

 この作品の場合、それは精神分析フェミニズムでしょうか。例えばその臭いがプンプンしているのは、大学で文学(字幕ではI teach Englishを「英語を教えている」と訳していたが、違う)を教える主人公フラニー(メグ・ライアン)が最初に学生に出している課題がヴァージニア・ウルフの『灯台へ』であり、大団円の場面が灯台であるという仕掛け。ヴァージニア・ウルフという、精神分析的なものとフェミニズム的なものの20世紀における始祖をフレームにしていることが、この映画のほとんど全て(その自意識過剰も含めて)を語っている。

 灯台というファルスの象徴(教室の場面では、黒板に過剰にファリックな灯台の画が描かれている)のもとで要求される「女性性」へのフォビアが、遺体バラバラ連続殺人の恐怖と重ねられ、そういった「享楽」に恐怖しつつ惹きつけられる主人公の迷走が始まるというプロットになっている。(タイトルにある 'cut'は、女性性器の隠語であるとともに切り裂き殺人を示す。)

 ウルフの『灯台へ』についても、灯台はラムゼイ氏の代表するヴィクトリア朝的家父長制の象徴である、という説が基本としてあるが、カンピオンはそれをおそらく知ってやっているのだろう(まあ、灯台がファリックだというのは「そのまんま」でもあるけど)。

 原作(スザンナ・ムーア)の結末はもっと不気味で、主人公はその「享楽」に到達してしまう。切り裂き魔に切り裂かれながら、主人公はようやく「女性のように」なるのです。切り裂き魔に「いたくしないで」とか言って。享楽と死が一致するというところにアイロニーがないのなら、原作は(映画も?)どこまでも反「フェミニズム」的かもしれない。

 どちらにせよ、「性にまつわる物語」と「探偵物語(=死体にまつわる物語)」が一致しているという意味で、これは19世紀以降の「物語」を煎じ詰めたような映画だといえる。性と死体という二つの'in the cut'(隠し場所)に秘められたものがプロットを起動するという意味で。同時に、あまりにもきれいにそれをやってのけているので、21世紀人の私たちは退屈するしかない。フーコー師はやはりえらかった、ということを証明する映画。