敗北の文学

 昨日は会議と、今年度で退官される特任教授の送別会。三次会(まで飲むのは決まった二人なのだが)は、かねてより名の聞こえていたバー、「K6」に、京都三年目にして初めて行く。すばらしい品揃えに、いいバーテン。値段も良心的。一緒に飲んでいた同僚は私と同い年だったので、「1974年蒸留のシングルモルトある?」というと、3本も出してくる。価格帯もちゃんと三種類。もちろん、一番下を飲みましたが。

 京都にお客様を迎える際の行き先がひとつ増えました。

 本日は優秀卒論の口頭試問。私が副査となったのは、『風と共に去りぬ』の原作と映画版の比較研究で、映画版で抑圧されている歴史を、原作を読み、さらに原作も想像的に包摂している歴史を調べることによって抉るという、かなり面白いものであった。形式などむちゃくちゃだが、確実に知的ドライヴ感がある。こういう卒論書ける学生がちゃんといるのだなあ。って、私の指導力不足か。反省。

 面白かったのは、結論部でアメリカ南部の敗北の文学を、日本の敗北と重ね合わせている部分。この態度って、よく目にする気がするが、ある意味での必然性があるんだなあ、と、実例を目の前にしながら思ったのでした。まあしかし、「敗北の文学」というのは、文学は敗北を出発点とするのであるからして一種のトートロジーであり、それだけ普遍性のある話なわけだ。「勝利の文学」はオクシモロンなわけで。先のエントリーで触れた「第三の文化」系には、敗北が足りない、というか存在しない。