祭式

 結婚式に続いて、本日はゼミ生のお母さんの通夜。痛ましいことである。子供ができたからか、単に歳をとったからか、涙もろくなった私は、残された家族を思い、少々涙ぐむ。

 明日、祭式ritualに関する発表をしようという時に、立て続けに現代のritualに参加したのは何の啓示か。

 日本における多くの結婚式はホテルや結婚式場のチャペルでの式である。本日は浄土真宗の式。前者は信心には関係ない、ある意味形式的なものであり、後者は「土着」の本来的なものであるかというとそうではない。社会的象徴行為という点では、両者は同価である。一方は集団で契約を見守るという儀式であり、もう一方は集団で悼み、見送る儀式であるが、「区切りをつける」という意味では同じである。その象徴的行為としての機能を持つために、祭式の一部は「本来性」に訴えるという、ただそれだけだ。というより、祭式の本来性は、その徹底的な、不条理な形式性に担保される。「なんでこんなことするの?」「ずっと昔からそう決まってるのよ」「ずっと昔っていつ?」「ずっと、ずっと昔よ」というわけ。

 などと考えているうちに明日から東京。帰りは22日なので、それまで更新ストップです。