夕焼小焼と近代国民国家

 直接子どもの話ではないが、わが家の子守歌の定番は「夕焼小焼」である。

  夕焼小焼で 日が暮れて
  山のお寺の 鐘が鳴る
  お手々つないで 皆帰ろう
  烏と一緒に 帰りましょう


  子どもが帰った 後からは
  まあるい大きな お月様
  小鳥が夢を 見る頃は
  空にはきらきら 金の星

 どうも、歌詞が奇妙。一番から二番にかけて、なぜこのような転回があるのだろう。一番は子どものいる風景である。というより、子どもに向かって語りかけている。二番は子どもが不在である。「子どもが帰った後」の情景描写。なぜ、子どもに歌って聞かせる、または子どもが歌う童謡の半分が子ども不在なのだろう。

 ちょいと気になったので調べてみたが、作詞者は中村紅雨(1897-1972)で、作詞されたのは1919年。実際、どうやら中村紅雨の作詞に対して、一番二番が乖離しているという批判があったらしい。

 しかし、くり返し歌っているうちに、この歌詞はみごとなものであり、一番と二番の乖離こそこの歌の肝であることが感得されてきた。

 フロイト師によれば、赤子は最初母との蜜月関係にある、というより、主観的には自他が分離していないのだからそこには「関係」さえない。子どもは自己しかいない世界からスタートするのだ。ただ、「自己」は「他者」がいないと成立しないのだからこの言い方も間違っている。むしろ「不在のない世界」と言った方がいいだろう。赤子の世界には「有」しかない。

 そこに「他者」が入りこむ。エディプスコンプレクスにおいてはそれは「父」なのだが、この「他者」とは単純に他人ということではない。

 他者とは何か。それは他者のポジティヴな存在ではなく、「不在」の存在である。

 先日このブログでも書いた「フォルト/ダー」は、不在の演習とでもいえるものである。幼児は、母が自己の一部ではなく、どうやら他者であることに気づくのであるが、それに気づくのは母が不在であり得るという経験によってなのだ。この世界は「不在のない世界」、充溢した有の世界ではなく、どうやらそこには自己の認識の外部=不在があり得る。世界とは自分が見、感じている目の前と今・ここだけではない。「自分が不在である世界」が外側には広がっている。これに気づくことが成長の第一段階なのである。

 ところで、不在の単なる存在は不安をかき立てる。人間はそのような状態に安住はできない。そこで、直接認識の外側の世界は、経験からの演繹によって補われるのだ。不在を想像力によって充填し、自己を中心に組織化された世界のイメージを構築していく。「母ちゃんは今いないけど、またきっとトイレに行っているに違いない」とか、「昨日遊びに行った公園は、今は目の前にないけど、なくなったわけはなくて明日行けばまたあるはずだ」という形で。これが第二段階。

 ここまで述べれば「夕焼小焼」の一番と二番の乖離の意味は分かるだろう。一番は夕暮れの光と空気、鐘の音、手を繋いだ友達の感触、烏の鳴き声と、「今・ここ」の感覚のみで構成されている。二番はそれをバッサリ切断する。自己が不在であるどころか、人間さえ不在である自然の進行が描かれる。子どもが帰った後も、子どもが眠りについた後も世界は続いている。それを教える教育歌なのだ。

 ただし、以上のような「教育」は非常に近代的なものかもしれない。ヴァルター・ベンヤミンは「メシア的時間」と「均質的で空虚な時間」ということを言っている。均質的で空虚な時間とは、近代の私たちが当たり前に受け止めている時間性。要はカレンダーや時計の時間である。メシア的時間は過去から未来にわたるあらゆる時間性が「今・ここ」に噴出するような時間性である。ベネディクト・アンダースンは「均質的で空虚な時間」を、近代的国民国家成立の前提条件とした。国民国家が「想像」されるためには、カレンダーの時間にそって同時に進む共同体を想像できなければならない。

 アンダースンも指摘するように、これはまさに小説の提示する時間性である。「Aさんが夜会に向けてドレスをかがっているその間に、Bさんは****通りの自宅の窓から投身自殺した」というような小説のナラティヴが成立するためには、両者が均質的で空虚な時間にはめ込まれた存在であると前提せねばならない。Aさんの直接認識にとってBさんは不在である。だが、近代的世界を想像できる視点にとっては、存在する。小説がそのような視点を前提にしながら同時に教育するように、「夕焼小焼」は近代的主体を教育するのである。「子どもが帰った後からは」という切断は「その間に……」という時間性への跳躍なのであるから。

 追記:ここで書いたことと、偶然にもこちらの話が呼応。15世紀ブルゴーニュに「夕焼小焼」はなかった、と。そういえばアンダースンはベンヤミンだけではなくアウエルバッハの「同時性」の議論にも依拠しているのであった。アウエルバッハさん真面目に読まなきゃな。