天才と文化資本

のだめカンタービレ(1) (講談社コミックスキス (368巻))

のだめカンタービレ(1) (講談社コミックスキス (368巻))

 ちょいと乗り遅れ気味に。ご近所の子育て仲間に貸してもらって、読み始める。

 実を言うと高校までちょっとディープに音楽(フルート)をやっていた私としては、こういう「変人」たちってマンガの世界じゃなくて、かなりリアル。のだめのような超天然野生児もいれば、シュトレーゼマンのようなエロおやじ&エロ青年がいる。

 こういう類の作品の定型とは、たっぷりとした文化資本を持った天才と、文化資本を持たない天才がいて、後者の天才が花開く過程が物語の基調になっている、というものだが、『のだめ』についてはもちろんそれは千秋とのだめである(まだ最初の数巻しか読んでないのでこの後どうなるか知らないが)。この二人がライバル関係ではないところが特徴的か。ライバル関係ではなく、『マイ・フェア・レディ』的関係というわけ。

 ところで、一時期は音大に行きたいとまで思い、あっさり挫折した私は、後者、つまり文化資本を持たない天才など、クラシック業界には存在しないことを知っている。物心つく前からみっちりたたき込まれた連中には歯が立たない。その事実に打ちのめされた瞬間があった。(これは、身近に強烈な人物がいたせいかもしれない。中学生のころデュエットでコンクールに出た相方は、気づいてみればドイツに渡ってベルリン・フィルの団員にまでなった。)

 とは言っても、その意味での文化資本は日本ではそんなに稀少なものとはいえない。ピアノの保有率だけ考えても、1980年代には「中間層」で30%以上である。というよりむしろ、「ピアノのある家」は高度成長期からその後にかけての誇示的消費のアイコンのひとつだったわけだが。そういうわけで、「ピアノのある家」は正確な意味での文化資本とは言えない。

 「芸術系マンガにおける文化資本を持たない天才」の話題に戻ると(これ、スポコン系でも同じか)、これは経済成長期における「上昇」の幻想を満たしてくれるものだったわけだ。代々引きつがれた文化資本がなくても、「才能」があれば一代でのしあがれる、という。直感的には、現在そのようなナラティヴが有効であるはずはない。では、それに代わるナラティヴは何か?

 というわけで、とりあえず引き続き『のだめ』を読み進めることにしよう。