代表はいつも勝手に

 昨日は新自由主義読書会。前もって書いたことに、とくに付け加えることはなさそう。

 突然だけど、最近観た映画の中で面白かったものをまとめ出し。

THIS IS ENGLAND [DVD]

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 サッチャリズム時代のイギリス。フォークランド紛争で父をなくした少年と地元のスキンヘッズとの交流。やがて、そのギャング団は国民戦線へのコミットメントをめぐって分裂する……。

 ふつうに面白かったのだが、なんというか、サッチャー時代の極端な側面が、「イギリス」の民族誌的展示物として映画にされて売り込まれる、という図式でいくと、かなり広い意味でのヘリテッジ映画とも呼べそうなわけだが。まあその分、「イギリス文化」に導入するにはいいネタかもしれない。しかし、国民戦線に走るスキンヘッド青年たちの「ナショナリズムの苦悩」は、ちょっと真面目に受け止めてしまった。彼らにとってサッチャーは、「イングランド」を裏切る存在で、なおかつ彼らの経済的・共同体的安寧を奪った、ルサンチマンの対象でしかない。そのルサンチマンが悲劇的な結末を招くわけだが、こういう図式、というか、感情の構造は実際、ひろくあったのかしら、と。

サマーウォーズ [DVD]

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 これも困ったことに面白い。非常に巧みな構成になっていて、VR空間の共同体と、長野の田舎の共同体が併置され(仮想空間での格闘技と、甲子園=それぞれネット時代とそれ以前の典型的メディア・イヴェントのみごとな対置、言いかえるとナショナルなメディア・イヴェントとグローバルなメディア・イヴェントの対置)、ネットの脆弱性が明らかになったところで田舎の「現実の」共同体がその「修復」に打って出るわけだが、最終的にはネットの「群衆の力」が巨大な敵を倒す、と。昨日の読書会で問題になった、ネグリ=ハート系統の群衆論に、昨今のネット論を組み合わせるとこうなる、という例か。いやでも、負けそうになった主人公に民衆の力がたくされて一発逆転、敵を討つ、ていうのは日本のマンガやアニメの基本形でもあるわな。(と書いてふと悩みこんだのだが、この「基本形」っていつからなんだろう? 『ドラゴンボール』がまずは思いついていて、これが原型だとするとそんなに古くはない。)