作者について

 テニスのアンドレ・アガシがいよいよ引退する。確か最初にウィンブルドンで勝ったのは私が高校生のころ。いろいろな意味ですごい選手だった。

 それとは関係ないですが、

その音楽の<作者>とは誰か リミックス・産業・著作権

その音楽の<作者>とは誰か リミックス・産業・著作権

 先だって著作権のことについて少し雑感的に書いたので、この辺で音楽の「作者」という問題について考えてみたいと、繙く。偏見かもしれないが、ポピュラー・カルチャー研究の一部では、ポピュラー・カルチャーに反資本主義的な可能性を見出すといった能天気さが、実のところ単に当該の文化が好きで好きでしようがないという、審美的・趣味的動機に支えられていることが多い。本書はそういった姿勢からは距離をとりつつ、かといってロマン主義的な作者概念を懐かしむという疎外論からも、ポストモダン的な審美主義からも遠いところで書かれているので、好感が持てるのである。その分実直そのもので、カーンと突き抜けたところがないのであるが、それはないものねだりというもの。

 前半でクラブ音楽を中心とするポピュラー・ミュージック史を概観してくれているところはありがたい。一頃のテクノ音楽はよくシュトックハウゼンだとかケージだとか、ライヒだとかの名前と結び付けられるが、それはそういった音楽がハイブラウ化する際に事後的に、後付で見出された系譜であるという指摘は納得。*1

 筆者の視野は広い。結論部ではポピュラー音楽における作者概念の「拡散」を、「メディア的拡散」「産業的拡散」「法的拡散」に分類して論じるわけだが、これはもちろんそのそれぞれが膨大な研究を必要とするわけで、本書はその入り口に立って終わったという感じ。例えば最初のメディアに関しては、マクルーハンに始まりキットラーだのノルベルト・ボルツだののメディア論者が待っているし(必ずしも相手にしなくてもいいんだろうけど)、またそのように整理されると、ことは音楽にとどまらない(映画にもそのまま当てはまる)わけで。なんにせよ、その「総体」を論じてやろうという筆者の意気に敬意を表したい。

*1:つまり、文学作品などでもそうだが、ある文化的製作物が「作品化」される=固有の作者によるオリジナルな製作物とされる際には、逆説的にもその「系譜」が生成されるのだ。インターテクスチュアリティが実はロマン派的作者・作品概念を担保するという逆説。